かつて、青は画家が自由に使えない色でした。もっとも美しい青の絵具は、原料の石をはるばるアフガニスタンから運び、砕いて、ふるって、洗って、ようやく取り出すもので、ヨーロッパでは金に並ぶ値がついていました。だから画家は青を惜しみました。白を混ぜて薄め、下塗りには安い青で済ませ、いちばん良い青は聖母の衣にとっておく。[3]
その事情を、たった一つの絵具が変えます。1700年代のはじめ、ベルリンで赤い絵具を作ろうとした男の失敗から生まれた青――プルシアンブルーです。この青が世界を一周し終えたとき、画家たちは空も海も、好きなだけ青く塗れるようになっていました。
| 色名 | プルシアンブルー(Prussian blue) |
|---|---|
| 日本での呼び名 | 紺青(こんじょう)、ベロ藍、ベルリン藍 |
| 別名 | ベルリンブルー、ミロリブルー、ターンブルブルー、鉄紺 |
| JIS慣用色名 | 紺青/プルシャンブルー(暗い紫みの青) |
| 色の値 | マンセル 5PB 3/4 / #1A4472 / RGB(26, 68, 114) |
| 顔料番号 | C.I. Pigment Blue 27 |
| 化学式 | Fe₄[Fe(CN)₆]₃(式量 859.25) |
| 発見 | 1700年代初頭・ベルリン/ヨハン・ヤコブ・ディースバッハ(年は1704〜1706年の諸説) |
| 性格 | 世界で最初の近代的な合成顔料。天然の鉱物や植物ではなく、人が作り出した色 |
| 日本への到達 | 作品への使用は1765〜66年ごろから。1826年ごろに大量流入して一般化 |
| 代表作 | 葛飾北斎《神奈川沖浪裏》、歌川広重《名所江戸百景》 |
| 現在の用途 | 絵具・印刷インキのほか、放射性セシウムの経口排出薬、ナトリウムイオン電池の電極材料 |
金と並ぶ値がついていた青
プルシアンブルーが現れる前、画家にとって最上の青はウルトラマリンでした。原料はラピスラズリという青い石で、歴史的にはいまのアフガニスタン、サーリサング周辺で採られ、紀元前三千年紀にはすでにメソポタミアやエジプトへ運ばれていました。ルネサンスの画家たちにとってこれは「もっとも上等で、もっとも高価な青」であり、ヨーロッパでは金に並ぶほどの価値を持つこともあったとされます。[3]
しかも高いのは石そのものではありません。石を砕き、ふるい、洗って純度の高い青だけを取り出す――その手間のせいで、絵具は原料の石のおよそ十倍の値になりました。青が高かったのは、青が採れなかったからではなく、青にするのが大変だったからです。[3]
その青を惜しまなかった画家として知られるのが、ヨハネス・フェルメールです。《真珠の耳飾りの少女》の顔と衣は、黄土、天然ウルトラマリン、骨炭と木炭の黒、鉛白を主に使って描かれています。少女の頭に巻かれた布の青が、いまも褪せずに深いのはそのためです。[5]

赤をつくろうとして、青ができた
1700年代のはじめ、ベルリンの絵具屋ヨハン・ヤコブ・ディースバッハは、コチニール(えんじ虫)から赤い絵具を作ろうとしていました。ところが、そこで使ったカリが汚れていました。同じ建物で錬金術師ヨハン・コンラート・ディッペルが動物油を作るのに使い回していたもので、動物の血が混じっていたのです。[1,2]
赤くなるはずの液から沈んできたのは、見たこともない深い青でした。血に含まれる鉄と窒素が、カリと反応して思いがけない化合物になっていた――世界で最初の近代的な合成顔料は、こうして誰も狙わないところから生まれます。発見の年は1704年とも1706年とも記され、いまも一つに定まっていません。[1,2]
1724年、つくり方が公開された
生まれたばかりのころ、この青は秘密の商品でした。1710年に博物学者ヨハン・レオンハルト・フリッシュが学術誌にこの顔料を報告し、みずから製造と販売にも乗り出します。作り方を伏せたまま売れば、儲かるからです。[2]
その秘密は1724年に終わります。イギリスのジョン・ウッドワードが、王立協会の『Philosophical Transactions』に製法を発表してしまったのです。植物の灰と牛の血から作れる――そう明かされたとき、この青は特定の誰かの持ち物ではなくなりました。[1,2]
青の値段が下がりはじめたのは、この日からです。石をアフガニスタンから運ばなくてよく、鉱山も要らず、材料は灰と血。ウルトラマリンと違って、作ろうと思えば誰でも作れる青が世に出ました。
なぜ、この青だけが安くできたのか
答えは、材料が鉄だからです。組成式は Fe₄[Fe(CN)₆]₃。希少な石ではなく、どこにでもある鉄からできています。この結晶のなかには、電子を二つ失った鉄イオンと三つ失った鉄イオンが混じって並んでいます。[1,2]
青く見えるのも、この二種類の鉄が隣り合っているからです。光が当たると、電子が一方の鉄からもう一方の鉄へ飛び移ります。その移動に使われるのが波長700ナノメートル前後――つまり赤い光です。赤が吸い取られ、残った深い青がわたしたちの目に届く。青い色素が入っているのではなく、鉄と鉄のあいだを電子が渡るときに、青が生まれています。[2]
江戸に着いた青は「ベロ藍」と呼ばれた
それまで日本の青は、植物から採る藍が主役でした。落ち着いた深い青で、着物にも紙にも使われた、暮らしになじんだ色です。そこへ、澄んで冴えた別の青が海を渡ってきます。日本の作品にこの青が現れるのは1765〜66年ごろから。ただし当初は量も少なく、高いものでした。[1]
事情が変わるのは1826年ごろです。清国の商人が、イギリスから仕入れた余りを日本向けに大量に輸出・転売しはじめ、ベロ藍は一気に広まりました。ヨーロッパで製法が公開されてからちょうど百年、こんどは在庫のだぶつきという、これもまた誰も狙っていない経緯で、江戸の絵師の手もとに安い青が積み上がったのです。[1]
ここで少し意外な事実があります。ベロ藍を使った藍摺絵を日本で最初に描いたのは、北斎ではありません。北斎の門人、渓斎英泉でした。[1]

波の青を、拡大して見る
1831年の正月に間に合うように、版元の永寿堂が『冨嶽三十六景』を売り出します。売り文句のひとつが、版画の市場に出まわりはじめたばかりの新しい顔料――プルシアンブルーでした。[4]
そのうちの一図《神奈川沖浪裏》を、メトロポリタン美術館の科学研究部門が分析しています。分光分析で分かったのは、摺師たちが新しい青を古い藍と単純に取り替えたのではなかった、ということでした。[4]

つまりこの波は、絵師が青く塗ったものではありません。摺師が、青を二度重ねるか一度で止めるかを選び分けて作った青です。手に持って眺めた当時の人は、色が変わるたびのわずかな段差を、指先とも目ともつかないところで感じ取っていたことになります。[4]
The Met はこの分析をこう結んでいます――北斎はこの絵の制作に関わった作り手のひとりにすぎず、ただ、名前が伝わっている唯一の人だった。永寿堂の彫師と摺師の名を、わたしたちは知りません。[4]
ひとつ断っておくと、この記事に並ぶ画像の青は、顔料そのものの色ではありません。二百年前の紙に刷られ、光にさらされて少しずつ褪せ、それを各館がそれぞれの機材でデジタル化したものです。同じ《神奈川沖浪裏》でも、所蔵先が違えば画面に出る青は変わります。ここで見ていただきたいのは色の正確さではなく、一枚の版画のなかで青がどう作り分けられているか、その差のほうです。
同じ絵のなかの、高い青と安い青
青が安くなっても、高い青が消えたわけではありません。1851年、ジョン・エヴァレット・ミレイが描いた《マリアナ》の青いドレスは、二種類の青い顔料で塗られています――プルシアンブルーと、ウルトラマリンです。[6]

百五十年ちがう二つの青が、一着のベルベットのなかで並んでいる。画家はもう、どちらか一方を選ばされてはいません。安い青が手に入るようになったことは、高い青を捨てることではなく、選べるようになることでした。[6]
青は、ヨーロッパへ帰っていった
ベルリンで生まれ、江戸で「ベロ藍」になった青は、浮世絵に乗ってふたたびヨーロッパへ渡ります。歌川広重の版画の鮮やかな青は、欧米で高く評価されました。木版は油彩よりも鮮やかに色が出るため、この青は「ジャパンブルー」と呼ばれ、あるいはラピスラズリによるフェルメールの青になぞらえて「ヒロシゲブルー」とも呼ばれます。[7]

ドイツの絵具屋の失敗から生まれた青が、清国商人の在庫を経て江戸に着き、日本の風景を描く色になり、その絵が海を渡って、フェルメールの青の名で呼ばれる。地球をひとまわりして、青は出発点に戻ってきました。[1,7]

いま、この青がしている仕事
この顔料には、絵具とは別の顔があります。結晶がジャングルジムのような立体の網目になっていて、その隙間に、外から来た分子やイオンを取りこむことができるのです。[1,2]
その性質は、いま医薬品として使われています。体内に取りこまれた放射性セシウムやタリウムを捕まえて、体の外へ運び出す経口薬です。世界保健機関(WHO)の必須医薬品モデルリストにも載っています。ほかにナトリウムイオン電池の電極材料、青写真の青、そしてゴルフ場の芝の着色料にも使われています。[1,2]
赤い絵具を作りそこねて生まれた青が、三百年かけて、絵から薬になりました。
青が安くなった日に、絵は変わった
色の歴史は、たいてい技術の歴史として語られます。けれどこの青の話は、値段の話として読むほうが腑に落ちます。青が高かったあいだ、画家は青を薄め、下塗りをごまかし、いちばん良い青を特別な場所にとっておきました。青が安くなったあと、北斎は空も海も好きなだけ青くしました。
《神奈川沖浪裏》の波をもう一度拡大してみてください。あの深い青は、二度摺られています。惜しまなくてよくなった色だから、二度摺れたのです。絵の中の青は、その時代に青がいくらだったかを、いまも正直に写しています。[4]





