ニコライ・アストルップ/ヨルステルの火と庭
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ニコライ・アストルップ/ヨルステルの火と庭
ノルウェーの画家ニコライ・アストルップは、生涯のほとんどを故郷ヨルステルの谷で過ごしました。彼はなぜ世界を旅せず、一つの土地だけを描き続けたのでしょうか。そこには、牧師の息子として「異教の祭り」から疎外された少年の孤独がありました。アストルップにとって絵を描くことは、一度は拒絶された故郷の土に、自らの手で根を下ろすための切実な営みだったと言えるでしょう。一人の画家が、属しきれなかった土地に「属そう」とあがいた、静かな半生の物語を辿ります。
ノルウェーの画家ニコライ・アストルップは、生涯のほとんどを故郷ヨルステルの谷で過ごしました。彼はなぜ世界を旅せず、一つの土地だけを描き続けたのでしょうか。そこには、牧師の息子として「異教の祭り」から疎外された少年の孤独がありました。アストルップにとって絵を描くことは、一度は拒絶された故郷の土に、自らの手で根を下ろすための切実な営みだったと言えるでしょう。一人の画家が、属しきれなかった土地に「属そう」とあがいた、静かな半生の物語を辿ります。
1880年に生まれたニコライ・アストルップは、厳格な教区牧師の父のもと、ヨルステルのオールフスで育ちました。村人が夏至の夜に焚き火を囲み、異教の古い習慣に興じる中、彼は柵の向こう側からその光を眺めることしか許されませんでした。代表作「夏至祭の焚き火」には、その原風景が刻まれています。ニコライ・アストルップはこう書き残しています——「『夏至祭の夜』という絵は、私が最初に描いたものの一つだ。火を見つめる少女と風景の大部分は、クリスチャニア(オスロ)の絵画学校に入る前、いかなる芸術も目にする前に描いたものだ。」彼は独学で安価な住宅用塗料を用い、禁じられた火を画面に定着させようとしました。この初期の衝動こそが、彼が生涯を通じて故郷の神秘を追い求める出発点となったのです。
父との葛藤を経て、彼は都市で美術を学びますが、1902年に再びヨルステルへ戻り定住します。前章で見た「火」への執着は、次第に土地そのものが持つ古い記憶へと広がっていきました。作品「イェルステルの春の夕暮れ」や「クヴェナヴァトンの湖」に見られるのは、単なる風景ではありません。そこには、古くからの異教信仰が染み込んだ湿った土や、人を圧倒する自然の気配が漂っています。彼は1908年の書簡で、ヨルステルの風景を歩く時に人を圧倒する自然の感覚を表現しようとしてきたと述べています。1910年に描かれた「クヴェナヴァトンの湖」の深淵な色彩は、伝説に満ちたこの土壌の生の響きを伝えているように読めます。彼は、目に見える景色を描くのではなく、その土地の深層に流れる、言葉にならない神秘に自らの眼差しを重ねていきました。
土地の神秘を描くだけでは足りず、彼は自ら景観そのものを造り変える道を選びます。1913年に移住したサンダルストランドで、彼は妻エンゲルと共に急斜面を開墾し、自給自足の農園を築きました。ニコライ・アストルップはこう書き残しています——「この山村で育つ可能性のある、あるいは不可能なあらゆる植物を実験せずにはいられない弱点がある。ここでは育たないものさえも。」作品「ルバーブ」や「ジギタリス」に描かれた豊かな植生は、彼の実験の成果そのものでした。彼は樹木をトロールのような形に剪定し、絵のモチーフとするために庭を造形しました。1909年の「庭の春の夜」に見られるように、庭は彼にとって生活の場であると同時に、生きた芸術作品でもありました。耕すという行為を通じて、彼はようやく土地の一部になったのです。
自ら耕した庭で、彼は長い冬の果てに訪れる「再生」を繰り返し描きました。前章で触れた開墾の日々は、結核や喘息という肉体の苦しみとの戦いでもありました。しかし、1925年の「イェルステルの春」や「春の白馬」には、生命の力強い息吹が満ちています。雪解けの谷をゆく白い馬の姿は、厳しい自然の中で生き抜く土地の精霊のようにも見えます。かつて牧師館の窓から疎外された眼差しで火を見つめていた青年は、ここではもう、風景の外側にいる傍観者ではありません。1928年に47歳でこの世を去るまで、彼は絵筆と鍬を同じように使い、故郷という名のキャンバスを彩り続けました。春の光の中で、ニコライ・アストルップは、自らが描き、耕したヨルステルの土へと静かに還っていったのです。
ニコライ・アストルップは、生涯をかけて一つの谷を愛し、その神秘を掘り起こしました。彼が描いたのは、単なるノルウェーの自然ではなく、人が土地に属そうとする意志の形だったと言えるでしょう。その静かな情熱は、今も色褪せることなく、私たちに「居場所を造ること」の尊さを語りかけています。