第3章 ・ 読む
群衆をみつめる — 近代都市とブルジョワ風刺
正装の紳士淑女の群れに、そっと皮肉がしのばせてあります。

群衆、という言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべますか。祭りのにぎわいでしょうか、それとも駅の雑踏でしょうか。十九世紀末のパリでは、この「群衆」という存在そのものが、知識人たちの熱い関心の的でした。都市がどんどん大きくなり、見知らぬ人同士が肩をぶつけ合いながら暮らすようになったとき、人間の心には何が起こるのか——そんな問いが、当時の思想家たちを夢中にさせていたのです。スイス生まれの画家フェリックス・ヴァロットンも、まさにこの主題に強く引かれた一人でした。
彼が繰り返し見つめたのは、商工業や資産によって豊かになった中産階級、いわゆるブルジョワジーの暮らしです。ヴァロットンはこの人びとの姿を、しばしば皮肉たっぷりに、そして白と黒の平らな面を組み合わせた大胆な絵で描き出しました。ここでご紹介する『退場』も、そんな一枚です。舞台はパリの劇場、おそらくオデオン座から人びとが出てくる場面。シルクハットをかぶった紳士たちと、ベールをまとった淑女たちが、画面いっぱいにあふれかえるように描かれています。
じっくり見て注目したいのは、みな正装というきちんとした身なりであるにもかかわらず、そこに漂う空気がどこか混沌としていることです。整った服装と、乱れた群れの動き——このちぐはぐさこそが、ヴァロットンの皮肉なまなざしの正体だと言えるでしょう。一人ひとりは礼儀正しいはずの紳士淑女が、群れになった途端、まるで意思を持つ一つの生き物のように押し合いへし合いしている。都市という新しい暮らし方が、そこに住む人びとの心をどう変えてしまうのか。この絵はそっと、けれどはっきりと問いかけているのです。着飾った人の波の中に、あなたも小さなおかしみを見つけてみてください。
出題出題されやすい語重要語地名・年号・概念・技法
出典(5)
- 1.スイス生まれの芸術家フェリックス・ヴァロットンは、パリのブルジョワジーの生活をしばしば風刺的に描いた大胆なグラフィック画像で知られていた。The Cleveland Museum of Art
- 2.画面には、シルクハットを被った男性たちやベールを被った女性たちが溢れかえるように描かれており、群衆の様子を捉えている。The Cleveland Museum of Art
- 3.登場人物たちの正装というフォーマルな装いとは対照的に、劇場から出てくる場面には混沌とした感覚が表現されている。The Cleveland Museum of Art
- 4.ヴァロットンは当時の多くの知識人と同様に、群衆の心理というテーマに対して強い関心を抱いていた。The Cleveland Museum of Art
- 5.本作は、パリのような近代都市における都市生活が、そこに住む人々にどのような影響を与えるかという点に着目している。The Cleveland Museum of Art