第2章 ・ 読む
大胆な構図と余白 — 日本美術に学ぶ
画面の三分の一を、あえて空白にしてしまう大胆さ。

黒と白だけで語る力を手に入れたヴァロットンは、次に「構図」という舞台でも思いきった冒険を始めます。そのお手本になったのが、はるばる海を渡ってきた日本の浮世絵でした。江戸時代に花開いた多色刷りの木版画には、奥行きをわざと作らない平らな空間、ぐいっと傾いた遠近感、そして着物などに見られる大胆な文様がありました。西洋絵画には「奥行きをきちんと描くべき」「画面はバランスよく埋めるべき」という長年の約束事がありましたが、ヴァロットンはこの浮世絵の自由さにふれ、そうした常識から少しずつ解き放たれていきます。
その成果がよく分かるのが、1893年に木版で制作された作品です。まさにこの作品は、日本の多色木版画に見られる平らな空間、傾いた遠近、文様の使い方に触発されて生まれました。豊かな黒インクと紙の白さのコントラストが、押し寄せる群衆のいきいきとした動きを生み出しています。描かれているのは、警察が政治デモを鎮圧する場面。人々の塊が前へ前へと激しく押し寄せてきます。1890年代のパリでは街頭での暴動がめずらしくなく、ヴァロットンはこうした社会の緊張をたびたび題材にしていました。
ただし、ここには思わずくすりとする工夫もあります。逃げる途中で自分のシルクハットを慌てて掴もうとする男性や、傘を手によちよち歩く恰幅のよい人物が紛れ込んでいて、警察の暴力という重い主題の鋭さを、少しやわらげているのです。
そして何より驚くのが右下の隅。ここが画面全体の三分の一を占めるほどの、まっさらな空白になっています。普通なら埋めたくなる場所を、あえて何も描かない——この思いきりの良さこそ、浮世絵から学んだ余白の力そのものです。埋めないことで生まれる緊張と静けさを、じっくり味わってみてください。
出題出題されやすい語重要語地名・年号・概念・技法
出典(5)
- 1.この作品は、日本の多色木版画に見られる平面的な空間、傾斜した遠近法、および文様の使用に触発されて制作されたものである。The Cleveland Museum of Art
- 2.ヴァロットンは、豊かな黒のインクと紙の白さのコントラストを活かすことで、群衆が押し寄せるダイナミックなイメージを作り出した。The Cleveland Museum of Art
- 3.版画の右下隅にある空白部分は、画面全体の3分の1を占めており、大胆かつ独創的な構図上のコンセプトとなっている。The Cleveland Museum of Art
- 4.作品の主題は、警察が政治デモを鎮圧する際に、前方へと激しく押し寄せる人々の塊を描いたものである。The Cleveland Museum of Art
- 5.当局から逃げ惑う群衆を描く際、滑稽な描写を加えることで、警察の暴力に対する批判的なニュアンスを和らげている。The Cleveland Museum of Art