第1章 ・ 読む
木版画の復権 — 白と黒だけの世界
彫って刷るだけの黒と白が、芸術によみがえります。

木版画、と聞くと、少し古めかしい響きを感じるかもしれません。木の板を彫り、彫り残した部分にインクをのせて紙に刷る——ヨーロッパでもっとも古い歴史を持つとされるこの技法は、じつは十九世紀半ばまでに、芸術としての人気をすっかり失っていました。写真や新しい印刷術が広まるにつれて、木版画は絵を複製するための地味な手段にすぎない、と見なされるようになっていたのです。
そこへあらわれたのが、スイス出身の画家であり版画家でもあったヴァロットンでした。彼は一度は廃れてしまった木版画という古い技法を、現代によみがえらせた人物として知られています。彼が木版画に惹かれた理由は、この技法だからこそ生み出せる、純粋で簡略化された形にありました。色をたくさん使わず、白と黒だけのコントラストで、模様や奥行き、ものの形までも語ってしまう——余分をそぎ落とした、きっぱりとした画面です。
しかもヴァロットンは、下絵を考え、板を彫り、実際に紙へ刷るところまで、すべて自分の手で行いました。分業ではなく一人で完結させることで、線の一本一本、黒の塊の置き方ひとつまで、彼自身の意思がそのまま画面に刻まれることになります。だからこそ彼の木版画は、単なる複製技術の産物ではなく、独立した表現として見る人を惹きつけたのでしょう。
その代表的な一枚が『怠惰』です。パリの日常のひとこまをとらえたこの作品は、まさに白と黒だけで成り立っています。灰色の階調や淡い中間色に頼らず、黒い面と白い面の対比だけで、体の丸みや布のやわらかさ、空間の奥行きまでもが感じられる仕組みになっているのです。色を抜くことは、情報を減らすことのようでいて、じつは見る側の想像力をかき立て、画面をむしろ豊かに感じさせます。これこそが、ヴァロットンが木版画という古い技法に見出した、新しい可能性でした。
続く章では、こうした白と黒の力が、パリの群衆や室内の場面のなかでどう働いているのかを、じっくり見ていきましょう。
出題出題されやすい語重要語地名・年号・概念・技法
出典(5)
- 1.木版画はヨーロッパにおける版画制作の技術の中で、最も古い歴史を持つ技法であるとされている。Art Institute of Chicago
- 2.芸術的な実践としての木版画は、19世紀半ばまでには人々の関心から外れ、廃れてしまっていた。Art Institute of Chicago
- 3.ヴァロットンは、一度は芸術的実践として廃れた木版画の手法を現代に復活させた人物である。Art Institute of Chicago
- 4.彼は、純粋で簡略化された形態を生み出すことができるという木版画特有の潜在能力を歓迎した。Art Institute of Chicago
- 5.白と黒のみのコントラストを用いることで、模様や奥行き、そして形状を暗示させる手法をとった。Art Institute of Chicago