



はじめに ・ 読む
はじめに — そもそもレンブラントとは
作品の前に、まずレンブラントが生きた時代からのぞきましょう。
「レンブラント」という名前は、絵にくわしくなくても、どこかで耳にしたことがあるかもしれません。レンブラント・ファン・レインは、いまから四百年ほど前、十七世紀のオランダに生きた画家です。生まれたのは一六〇六年、ライデンの町。製粉業を営む父と、パン屋の娘である母のもとに、九番目の子として育ちました。当時のオランダは、貿易で栄え、市民までもが絵を買い求めるようになった豊かな時代——のちに「オランダ黄金時代」と呼ばれる、絵画の花ひらいた時期にあたります。
十八歳のとき、レンブラントはアムステルダムの画家ピーテル・ラストマンに半年ほど弟子入りし、強い明暗で場面を劇的に見せる技法や、物語を語る面白さを学びました。この光と影こそ、のちに彼の絵すべてを貫く武器になります。二十代で早くも高い評価を受けはじめ、一六三四年には裕福な家の娘サスキアと結婚。彼女は多くの絵のモデルにもなりました。
しかし後半生は順風ではありません。一六五六年には浪費や不況から経済的に行きづまり、邸宅も膨大な美術コレクションも競売で失いました。それでも絵の力はおとろえるどころか深まり、なめらかで精緻な初期の筆から、絵具そのものの質感を生かした荒々しい晩年の筆へと変わっていきます。彼は生涯、自分の顔を描き続け、エッチングという版画でも新しい表現を切りひらきました。光と影のキアロスクーロ、人間くさい聖書画、自画像、エッチング、そして名もなき人へのまなざし——五つの入り口から、その世界をのぞいていきましょう。
出題出題されやすい語重要語地名・年号・概念・技法
出典(10)
- 1.1624年頃、アムステルダムの歴史画家ピーテル・ラストマンに半年間師事しました。この短い修行期間は、レンブラントが歴史画の大家として成長する上で決定的な影響を与えたと言われています。Wikipedia
- 2.1629年、政治家コンスタンティン・ハイヘンスに見出され、オランダ総督フレデリック・ヘンドリックからの重要な注文を受けるようになります。これが彼の初期のキャリアにおける大きな転機となりました。Wikipedia
- 3.レンブラントは生涯で約40点の自画像を残しました。これらは単なる記録ではなく、彼の内面や人生の変遷を映し出す「親密な自叙伝」として、西洋美術史上でも類を見ない価値を持っています。Wikipedia
- 4.1639年にアムステルダムのユダヤ人街に近い住宅へ移住しました。彼は近隣のユダヤ人たちをモデルとして雇い、旧約聖書の場面をよりリアルに描き出すためのインスピレーションを得ていました。Wikipedia
- 5.1642年、最愛の妻サスキアを亡くしました。彼女の死の間際の姿を描いた素描は、彼の作品の中でも最も感動的なものの一つとされ、その後の彼の画風に深い精神性をもたらすことになります。Wikipedia
- 6.レンブラントは一度も外国へ行ったことがありませんでしたが、イタリアの巨匠たちの作品から強い影響を受けました。光と影を操る独自のスタイルは、国際的な芸術動向を独自に消化した結果です。Wikipedia
- 7.1656年、美術品の収集癖や放漫な生活がたたり、破産を宣言しました。家や膨大なコレクションを売却せざるを得なくなりましたが、この逆境の中でも彼の芸術的評価が衰えることはありませんでした。Wikipedia
- 8.晩年のパートナー、ヘンドリッキェ・ストッフェルスは、教会から「不適切な関係にある」と非難されました。彼は彼女との間に娘をもうけましたが、亡き妻の遺言の関係で再婚はしませんでした。Wikipedia
- 9.レンブラントは20年間にわたり、ヘリット・ダウやフェルディナント・ボルなど、多くの重要なオランダ人画家を指導しました。彼の工房は、当時のオランダ美術界の重要な教育拠点でした。Wikipedia
- 10.彼の作品は油彩画約300点、エッチング約300点、そして数百点の素描に及びます。肖像画から風景画、宗教画まで、その主題の幅広さは17世紀のオランダ人画家の中でも際立っています。Wikipedia