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まとめ — ピサロとは、何だったのか
5つの核がそろえば、もう自分の言葉で語れます。
5つの入り口をふりかえってみましょう。ピサロはまず、アトリエを出て戸外に立ち、田園の風景を、下書きもせず、その場の光ごと素早く描きました。移ろう光と季節をとらえるため、同じ主題を天候ごとにくり返す連作にも挑み、雪の情景だけでも生涯100点近くを残しています。彼のまなざしは風景だけでなく、そこに生きる農民の日常にも、そしてめまぐるしく動く近代都市パリにも注がれました。さらにピサロは、絵を描くだけの人ではありません。分裂しがちな印象派の仲間をつなぎとめ、若い画家たちを支え、8回すべての印象派展に出品しつづけた、運動の要の人でもありました。
農村と都市、風景と人物、そして絵と仲間——一見ばらばらに見えるこれらは、じつは一つの態度で貫かれています。それは、名もなき日々の暮らしと、目の前の移ろう光を、まっすぐに見つめつづけること。派手な神話も英雄もいらない、ふつうの一日にこそ絵になる真実がある——そう信じぬいた人でした。一言でいえば、ピサロとは、印象派をいちばん深いところで支えた、田園と光のまなざしの人。もう、あなた自身の言葉で語れるはずです。
出題出題されやすい語重要語地名・年号・概念・技法
出典(11)
- 1.カリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島で、フランス系ユダヤ人の家庭に生まれ、家業を手伝いながら育った。Wikipedia
- 2.画家を志してパリへ渡り、画塾アカデミー・シュイスでクロード・モネやポール・セザンヌといった後の印象派の仲間と出会った。Wikipedia
- 3.パリ郊外のルーヴシエンヌでモネやルノワールらと戸外制作を行い、それまでのコロー風の画風から明るい色調へと変化させた。Wikipedia
- 4.1874年の第1回から最後となる第8回まで、全8回開催された印象派展のすべてに参加した唯一の画家である。Wikipedia
- 5.ポントワーズではセザンヌやゴーギャンらと制作を共にし、特にセザンヌからは父親のような存在として深く尊敬されていた。Wikipedia
- 6.印象派グループ内で風景画派と風俗画派の対立が顕在化した際、最年長者としてその調停を試みるなど、精神的支柱の役割を果たした。Wikipedia
- 7.1880年代半ばにスーラやシニャックと出会い、光学的理論に基づく点描技法を取り入れた新印象主義を追求した。Wikipedia
- 8.点描の手法に限界を感じて新印象派を放棄した後は、自然から受けた感覚を自由に記録する元の美学へと立ち戻った。Wikipedia
- 9.晩年は眼の病気が悪化したため、ホテルの部屋からパリなどの都市の情景を俯瞰して描く「都市シリーズ」を多く制作した。Wikipedia
- 10.普仏戦争を避けて滞在したロンドンで、後に印象派の画家たちを支える重要な取引相手となる画商デュラン=リュエルと知り合った。Wikipedia
- 11.政治的には無政府主義者で過激な意見を持っていたが、人柄は温和であり、多くの仲間から尊敬と信頼を集めていた。Wikipedia