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はじめに — そもそもピサロとは
作品の前に、まず絵が生まれた時代そのものをのぞいてみましょう。
「ピサロ」という名前は、モネやルノワールほど聞き慣れていないかもしれません。カミーユ・ピサロは、いまから約200年前の1830年に、デンマーク領ヴァージン諸島という遠い島で生まれ、やがてフランスに渡って絵の道に進んだ画家です。1903年に世を去るまで、彼が描きつづけたのは、きらびやかな宮殿でも英雄でもなく、農村の風景と、そこで働くふつうの人びとでした。
彼が生きた19世紀後半のフランスで、美術の大きな転換が起こります。それまで絵は、アトリエの中で神話や歴史を格調高く描くものとされていました。ところがピサロたちの一群は、絵の道具をかついで戸外へ出て、目の前の風景や日々の暮らしを、その場の光のなかでとらえようとします。この新しい絵の運動が、のちに印象派と呼ばれました。
ピサロは、その印象派を代表する一人です。それだけでなく、仲間の若い画家たちの精神的な支えとなり、のちに名をなすセザンヌやゴーギャンの師にもなりました。仲間内で意見が割れても、8回ひらかれた印象派展のすべてに出品した唯一の画家が、このピサロでした。派手さはないけれど、印象派という運動をいちばん深いところで支えた人——それが彼です。5つの入り口から、その絵の世界をのぞいていきましょう。
出題出題されやすい語重要語地名・年号・概念・技法
出典(11)
- 1.カリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島で、フランス系ユダヤ人の家庭に生まれ、家業を手伝いながら育った。Wikipedia
- 2.画家を志してパリへ渡り、画塾アカデミー・シュイスでクロード・モネやポール・セザンヌといった後の印象派の仲間と出会った。Wikipedia
- 3.パリ郊外のルーヴシエンヌでモネやルノワールらと戸外制作を行い、それまでのコロー風の画風から明るい色調へと変化させた。Wikipedia
- 4.1874年の第1回から最後となる第8回まで、全8回開催された印象派展のすべてに参加した唯一の画家である。Wikipedia
- 5.ポントワーズではセザンヌやゴーギャンらと制作を共にし、特にセザンヌからは父親のような存在として深く尊敬されていた。Wikipedia
- 6.印象派グループ内で風景画派と風俗画派の対立が顕在化した際、最年長者としてその調停を試みるなど、精神的支柱の役割を果たした。Wikipedia
- 7.1880年代半ばにスーラやシニャックと出会い、光学的理論に基づく点描技法を取り入れた新印象主義を追求した。Wikipedia
- 8.点描の手法に限界を感じて新印象派を放棄した後は、自然から受けた感覚を自由に記録する元の美学へと立ち戻った。Wikipedia
- 9.晩年は眼の病気が悪化したため、ホテルの部屋からパリなどの都市の情景を俯瞰して描く「都市シリーズ」を多く制作した。Wikipedia
- 10.普仏戦争を避けて滞在したロンドンで、後に印象派の画家たちを支える重要な取引相手となる画商デュラン=リュエルと知り合った。Wikipedia
- 11.政治的には無政府主義者で過激な意見を持っていたが、人柄は温和であり、多くの仲間から尊敬と信頼を集めていた。Wikipedia