日常に潜む猫学にゃ
3 works
日常に潜む猫学にゃ
我輩がこの絵の前で昼寝していた時に気づいたのだが、少年マヌエル・オソリオの全身像は110×80cmにぎゅっと収まり、気品が匂うにゃ。依頼主はアルタミラ伯爵ビセンテ…人間どもは権威が好きだにゃ。だが少年の顔と表情、少し強がりで少し寂しいにゃ。猫のいる日常は、まず「見られる側」の緊張から始まるにゃ。次は南の島で、同じ日常がほどけるにゃ—ゴーギャンへにゃ
1901年、ゴーギャンはタヒチ再訪の最中にこれを描いたにゃ。座っているポリネシアの女性は、輪郭線で色面を区切るクロワゾニスムでどっしり安定、我輩の着地みたいだにゃ。膝の上の子供は、視線も体温も母へ吸い寄せられるにゃ。人間どもは「異国」に憧れるが、猫が見るのは日常の重み—抱く、待つ、守るにゃ。さて次は、窓辺で世界を見張る同業者に会うにゃ—広重へにゃ
広重は晩年1856年に仏門へ入り、翌年に世を去ったにゃ。その静けさが、この窓辺の白い猫の背中に染みるにゃ。遠くの富士山は、北斎の影響を受けた主題選択の名残—人間どもは山を崇め、我輩は日向を崇めるにゃ。同じ「猫のいる日常」でも、肖像の緊張、南国の抱擁、江戸の静観へと移ろうにゃ。あなたは今日、誰の膝で、どの窓から世界を見るにゃ?