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名所江戸百景 目黒新冨士

名所江戸百景 目黒新冨士

歌川広重
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画像出典Wikimedia Commonsパブリックドメイン

この作品について

描かれているもの

目黒新富士は、富士山に直接登山することができない人々のために、富士山を模して造られた「富士塚」の一つである。[2] 富士講の信者たちは修行として富士山へ集団登拝を行ったが、それが叶わない者のために富士塚が築かれた。[2]

背景と物語

本作は、広重の晩年を代表する連作「名所江戸百景」全120枚の揃物の中に含まれる一図である。[1] 目黒新富士を築いた近藤重蔵は、北方探検家、書物奉行、書誌学者といった複数の専門性を持つ人物であった。[2] 作品の物理的な大きさを示す法量は、縦36センチメートル、横24.4センチメートルの寸法である。[1] 毎年6月1日に行われる山開きは非常に賑わい、目黒の新富士や元富士は江戸の名所として知られるようになった。[2] 目黒の切り立った台地の上からは、眼下に目黒川や平野を見渡すことができ、富士山を眺める絶好の場所であった。[2] 歌川広重による「名所江戸百景」シリーズの第24景として描かれた作品である。[3] 富士講で賑わった目黒の築山(富士塚)と、本物の富士山、そして満開の桜が描かれている。[3] 描かれた新富士は、1819年に幕臣の近藤重蔵が三田村鎗ヶ崎の下屋敷内に築いたものである。[3] 目黒には「元富士」と「新富士」の2つの有名な富士塚があり、広重は両方を題材とした。[3] 三田用水路に囲まれた新富士を左に、本物の富士山を右奥に配置した春の風景が描かれている。[3] 本作を含むシリーズは、安政3年から5年にかけて広重が最晩年に手がけた傑作である。[3] 新富士は完成直後から露店が並ぶほど多くの参詣客で賑わい、人気を集めた場所であった。[3] 絵が描かれた当時の古地図では、新富士は近藤邸ではなく三田村の田畠緑地区域に記されていた。[3] 大胆な構図や高所からの鳥瞰、鮮やかな色彩など、独創的な表現技法が用いられている。[3] 絵の中では、新富士の頂上やその周辺で、桜や富士山を眺めて楽しむ人々の姿が描かれている。[3] 目黒は高台が多く富士山がよく見えたため、富士山を崇拝する富士講が盛んな土地であった。[3] 本作品の固有の名称は「名所江戸百景 目黒新富士」と題されており、江戸の風景を描いたものである。[1] この浮世絵の作者は、幕末期に活躍した著名な絵師である初代の歌川広重が手掛けている。[1] 本作は江戸時代末期の安政4年(1857年)4月に制作された、19世紀の作品である。[1] 資料の種別としては、当時の高度な多色刷り技術を用いた浮世絵版画である「錦絵」に分類される。[1] 本作の発行を担ったのは、当時の江戸で活動していた版元(出版社)である魚屋栄吉である。[1] 現在、この資料は東京都にある江戸東京博物館によって所蔵され、適切に管理されている。[1] 制作された時代背景は江戸時代末期にあたり、当時の社会や文化の様相を今に伝えている。[1] 博物館における資料の小分類としては、彫版と刷りの工程を経て作られる版画のカテゴリーに属する。[1] 富士講では、道徳的行動の実践による来世の約束や、加持祈祷による病気平癒、吉凶を占う「焚き上げ」が行われた。[2]

制作

目黒新富士は、文政2(1819)年に北方探検家や書物奉行を務めた近藤重蔵によって、自身の別邸に築かれた。[2] 目黒新富士の周辺は、海抜30~45mの「淀橋台」と呼ばれる高低差の激しい台地が広がる地形であった。[2] 目黒川の両岸には平野が広がり、南側には緩やかな台地、北側には高低差の激しい「淀橋台」が位置している。[2]

この絵に描かれているもの

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所蔵館

この作品はブルックリン美術館が所蔵しています。

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