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Vasily Surikov

Artist

Vasily Surikov

作品(2)

年表

1848

シベリアのコサックの家系に生まれたスリコフは、自身のルーツを深く誇りにしていました。この血筋は、後に彼が描く歴史画の力強い群像劇や、故郷を舞台にした壮大なテーマの源泉となりました。1

1868

父の死による貧困で一度は進学を断念しましたが、地元金鉱主のピョートル・クズネツォフがパトロンとなったことで道が開けました。彼の支援により、サンクトペテルブルクで本格的な美術教育を受けることが可能になりました。1

1869

帝国芸術アカデミー時代、スリコフはその卓越した構成力から「コンポーザー(構成家)」というあだ名で呼ばれました。複雑な群像を緻密に配置し、劇的な歴史の瞬間を再構成する彼独自のスタイルを象徴しています。1

1877

1877年、救世主ハリストス大聖堂の壁画制作の依頼を機にモスクワへ移住しました。この移住が転機となり、彼はロシアの歴史をテーマにした記念碑的な大作シリーズに着手し、画家としての名声を確立しました。1

1881

1881年、代表作『銃兵処刑の朝』を発表し、移動派(ペレドヴィジニキ)の一員となりました。国家の激動期を民衆の視点から描くリアリズムの手法は、当時のロシア美術界に鮮烈な印象を与えました。1

1883

大収集家パヴェル・トレチャコフが作品『ベリョーゾヴォのメンシコフ』を当時の高額で購入したことで、スリコフは念願のヨーロッパ旅行へ出ることができました。この旅で得た知見は、彼の色彩感覚をさらに豊かにしました。1

1888

1888年に最愛の妻を亡くしたスリコフは、深い絶望の中で故郷シベリアへ戻りました。この悲しみを乗り越える過程で、彼の作品の中でも特に明るい色彩を持つ『雪の町の占領』が描かれたと言われています。1

1895

『イェルマークによるシベリア征服』の制作では、自身の先祖も参加した歴史的事件を追体験するため、オビ川で膨大なスケッチを行いました。個人のルーツと国家の歴史を融合させた、彼にしか描けない傑作です。1

1897

スイス訪問時に描いた『スヴォーロフのアルプス越え』は、皇帝ニコライ2世によって買い上げられました。民衆を描く画家として知られたスリコフですが、その卓越した技量は時の権力者からも高く評価されていました。1

1910

晩年は故郷クラスノヤルスクに美術学校を設立し、後進の育成に尽力しました。心臓の病を抱えながらも、亡くなる直前までロシアの自然を描いた風景画や歴史画の情熱を失うことはありませんでした。1

出典

  1. [1]en.wikipedia.org