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前田寛治

Artist

前田寛治

Q188712, 1896–1930

前田寛治は、日清戦争が終結した翌年にあたる1896年10月1日、鳥取県に誕生した13。少年時代は穏やかな性格で、叔父から送られる雑誌を通じて都会の文化や科学的知識に触れて育った1。旧制倉吉中学校では、のちのマルクス主義理論家・福本和夫と同級であり、図画教師の中井金三から最初の本格的な指導を受けた2。旧制高校の受験失敗後、画家コローの評伝に触れたことで画家を志し、白馬会葵橋洋画研究所を経て1916年に東京美術学校西洋画科へ入学した2。在学中から光風会展や兜屋洋画展に作品を発表し、1921年に同校を卒業した23。同年には二科展と帝展に同時入選し、新進として注目された2

1922年に開催されたフランス絵画展を契機に渡仏を熱望し、同年末に出帆して1923年から3年間パリに滞在した123。アカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエールでクールベの写実主義を研究し、質感、量感、実在感の三要素で対象を捉える手法を自らのものとした34。滞欧中は佐伯祐三らと親交を結び、自らを「パリーの豚児」と称した3。また、再会した福本和夫の思想的影響を受け、1924年頃から労働者や工場を主題とする社会主義的リアリズムへと作風を転換させた134。1925年の帰国後は、帝展で《J・C嬢の像》が特選となるなど高い評価を得た2。1926年には「一九三〇年協会」を設立し、1928年には「前田写実研究所」を開設して後進の指導にあたった34

前田の画風は、古典的な構図とフォーヴィスム的筆致を融合させた「前寛ばり」という流行語を生むほど画壇に大きな影響を与えた4。生涯を通じて子供を好んで題材としたほか、歌手の淡谷のり子をモデルにした肖像画や、故郷の影の色彩を反映した青みがかった黒を用いるなど、独自の写実論を展開した14。1929年には帝国美術院賞を受賞し、帝展審査員に選出されて画壇での地位を確立したが、同年、写生旅行中に鼻腔内腫瘍を発病した24。1930年、入院先の病室で絶筆となる大作《海》を完成させた後、4月に33歳の若さで没した4。没後まもなく画集が刊行され、近代美術史に大きな足跡を残した12

出典は末尾の一覧を参照。

特集:前田寛治とは

作品(12

年表

1896

前田寛治は、日清戦争が終結した翌年にあたる1896年10月1日に誕生した。1

1909

4旧制倉吉中学校に進み、のちのマルクス主義理論家・福本和夫と同級だった。この縁は後年パリでの思想的交流につながる。2

1913

倉吉中学で図画教師・中井金三の指導を受けた。中井は東京美術学校卒で、前田の最初の本格的な絵の師にあたる。2

1914

7旧制高校の受験に失敗した後、画家コローの評伝に触れたことが画家を志す契機になったと伝えられる。2

1916

41916年、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学した。上京前は白馬会葵橋洋画研究所で学んだ。2

1918

21918年、光風会展に出品し、学生期から画壇に作品を発表した。2

1919

91919年、兜屋洋画展に《来世と教会の人々》を出品した(安井曾太郎・梅原龍三郎らが審査)。2

1920

11920年、父・宇蔵が死去した。2

4師・中井金三を中心に郷里の画家結社「東伯画会」(後の砂丘社)が結成され、前田も参加した。2

71920年、第一回砂丘展を開き、同人誌『砂丘』を発行して絵画についての文章を寄せた。2

1921

1921年に、前田寛治は東京美術学校を卒業して自身の学業を修了した。3

上京後は池袋周辺に住み、里見勝蔵・佐伯祐三・中山巍ら若い画家と親しく交わった(後にパリでの交友につながる)。2

81921年、郷里の倉吉中学で個展を開き、美術学校時代の作品71点を並べた。2

101921年、二科展と帝展に同時入選し、新進として注目された。2

1922

欧州へ留学する直前の時期、前田寛治は点描に近い技法を用いて制作を行っていた。3

1922年、平和記念東京博覧会に《立てる子供》を出品して賞状を受けた。2

1922年1月に開催された大原のフランス絵画展がきっかけで、彼はパリ行きを強く希望した。1

121922年12月、横浜からフランスへ向け出帆し、翌1923年2月にパリに入った。2

1923

1923年、社会的に困難な状況にある人々を描いた「二人の労働者」を制作し、留学期の作風を示した。3

61923年、里見勝蔵とともにヴラマンクを訪ね、オーヴェール・シュル・オワーズのゴッホの墓に詣でた。2

8渡仏に同船した画友・石河光哉とはパリで共同生活の後、信仰上の考え方の違いから決裂した(ただし友情は続いた)。2

9関東大震災で郷里からの送金が途絶え、パリで友人に借金しながら留学を続けた。2

ポーランド人の姉妹
二人の労働者
1924

欧州滞在中は労働者や工場を主な題材に選び、社会主義的リアリズムの表現手法に関心を持った。3

パリでは佐伯祐三や里見勝蔵らと親しくし、前田は自らを含む仲間を「パリーの豚児」と呼んでいた。3

71924年、パリで高須嘉六と数か月アトリエ生活を共にし、絵画を指導した。2

作品
1925

帰国後の1925年ごろには、対象の形を的確に捉えた重みのある写実的な作風へと変化を遂げた。3

1925年、クールベの評伝を翻訳・紹介し、写実主義への傾倒を深めた。2

滞欧の集大成として《ブルターニュの女》《J・C嬢の像》など人物画の大作を制作した。2

1925年に「裸婦」や「黒衣婦人像」を制作した。これらは留学時代の特徴である伝統的な様式を反映している。3

10帰国後の1925年、帝展で《J・C嬢の像》が特選となった。2

121925年、郷里で滞欧作品展を開き、留学を支えた後援者に作品を頒布した。2

黒衣婦人像
労働者
裸婦
ブルターニュの女
1926

1930年協会という美術団体を設立し、その中心的な役割を担う人物として精力的に活動を続けた。3

1926年に開かれた第1回聖徳太子奉讃展において、前年に制作した油彩画「黒衣婦人像」を展示した。3

1926年ごろ、郷里の女性と結婚し所帯を持った。2

51926年、一九三〇年協会の第一回展を開催し、前田は滞欧作40点を出品した。2

1927

11927年、再建共産党の指導者だった旧友 福本和夫の肖像を描いた。福本はしばしば前田の家を訪ねていた。2

61927年、一九三〇年協会展は第二回から公募形式をとり、若手洋画家の登竜門となった。2

101927年、帝展で《横臥裸婦》が特選となり、その売約金を自身のアトリエ建設に充てた。2

121927年、美術叢書『クールベ』を書き上げた。2

121927年12月、長男・棟一郎が生まれた。2

1928

1928年に東京杉並区にアトリエ兼自邸を建設して「前田写実研究所」を開設し、後進の指導を行いながら写実画の探求を深めた。4

51928年、帝国美術院の帝展推薦(無鑑査出品資格)に選ばれた。2

51928年、一九三〇年協会の講演会で「写実美について」語り、自らの写実論を説いた。2

81928年、盟友の画家 佐伯祐三がパリで客死した。2

裸体
棟梁の家族
裸婦
1929

1929年、犬養健の新聞連載小説「走馬燈」の挿絵を手がけた(掲載は没後)。2

1929年、秋の帝展審査員に挙げられ、画壇での地位を確立した。2

1929年、写生旅行中に体調を崩し、のちに鼻腔内腫瘍と診断される病を得た。2

11929年、一九三〇年協会の第四回展に《棟梁の家族》などを出品した。2

病床の一夜
1930

1930年、入院先の病室で絶筆となる大作『海』を完成させたが、同年4月に鼻孔内腫瘍のため33歳の若さでこの世を去った。4

11930年、一九三〇年協会展に《二人の労働者》《海》など晩年の代表作を出品した。2

51930年、没後まもなく画集『前田寛治画集』が刊行された。2

海

出典

  1. [1]滝悌三『前田寛治』(日動出版部・1977)
  2. [2]前田寛治の芸術展 詩情と造形(愛知県美術館・1999)
  3. [3]文化遺産オンライン(文化庁)
  4. [4]Wikipedia

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