まず、一枚の絵の前に
まず、大きな一枚の絵の前に立ってみてください。荒れた日本海です。手前の岩に砕けた波が泡立ち、しぶきを上げる。その波頭の下に沈む深い紺青は、この画家だけが出せた色でした。[4]
『海』——畳二枚分ほどの、三百号の大作です。前田寛治は、これを病室で描きました。鼻に生じた腫瘍に命を削られながら、大きなキャンバスを床に寝かせ、テレビン油で溶いた絵具を流し込むように塗り重ねていく。制作を止めようとする夫人に、彼はこう言い残しています。「これさえ描いておけば、死んでもいいのだ」。[4]

「これは雨なんだ」
画面に斜めに走る、無数の条痕。見舞客が「飛沫だろう」と言うと、彼は笑ってこう答えました。「皆そう言うが、これは雨なんだ」。その真意は、いまも分かっていません。絵を描き上げて間もなく、前田寛治は世を去りました。満三十三歳。『海』は、彼の絶筆になったのです。[4]
労働者や、働く人々の家族を描き続けた画家が、なぜ最後に、故郷の海へ帰ったのか。その答えは、彼の三十三年をたどると見えてきます。
山陰の村から
前田寛治が生まれ育ったのは、日本海に臨む山陰の農村、鳥取県の国坂です。村は茶臼山の東斜面に沿って延び、日が西に傾けば、集落はまるごと山の影に入る。目の前の海は、秋から冬にかけて青黒く荒れ狂う。翳りのある風土でした。前田自身、郷里の友人への手紙で、自分の故郷を「雨国」と呼んでいます。[4]
国坂で目につく色は、そう多くありません。石州瓦の朱をおびた褐色、松や椎の濃い緑、酸化第二鉄を含んだ土の赤。冬でも乾かず、濡れたように湿りつづける土地です。青黒さ、濃いビリジァン、赤褐色。のちに彼の絵を決定づける色の好みは、この土地の変わらない色と、そのまま重なります。[4]
そして彼は、それを引け目にしませんでした。鳥取の友人には「俺達山陰人には明るい絵は描けないよ、なあ」と語り、明るい山陽の光とは違う翳りのある青と黒を、絵の芯に据えたのです。門下の西垣武雄にも、「君は、君の生まれ育った山陰の、一見単調とも見えるグルーミーな自然の色調から逃れることは出来ないのだ」と説いたといいます。冒頭の『海』のあの紺青も、この風土から来ています。[4]
クールベを、日本へ
東京美術学校を出た寛治は、1922年に日本を発ちます。船でマルセイユに着いたのが翌年の2月。パリで深く共鳴したのが、十九世紀フランスの画家、クールベでした。物語や装飾を排し、目の前にあるものを手応えごと掴む。クールベのその写実を、彼はクールベ論を一冊書くほど研究し、思想ごと日本へ持ち帰ろうとしました。[1,4]
この地で彼が自覚したのは、対象を「質感、量感、実在感」の三要素として捉える方法論でした。ものが確かにそこに在ること。その手応えを、絵の中にどう定着させるか。それが、生涯をかけた問いになります。[3]

声なき人々を描く
だから彼が描こうとしたのは、美しい風景や卓上の静物ではありませんでした。「僕等には僕等の時代のモチーフで描かねばならない。労働争議の有様だとか、機械だとか」。労働者を、機械を、働く人々を描く。[4]

その信条は、一枚の絵に刻まれています。『二人の労働者』。頑丈な木のテーブルを前に座る二人の男の、握りしめた拳、真一文字に結んだ口、大きく見開いた目が、絵を観る者を睨み返す。画面の上部にはかつて、労働者の自覚をうたうローマ字の銘が掲げられていました。のちに彼はそれを塗り消しています。滞欧作の婦人像の帽子に描き込んだ鎌とハンマーも、弟に見つかると「見付かったか」と塗り消す。特高に追われる友をかくまい、自らも留置場に入れられました。[4]
そして代表作『棟梁の家族』。中心にいるのは、旗でもスローガンでもなく、鳥打帽の棟梁とその家族です。ごく普通の、働く人々。しかもこの棟梁は、前田自身の姿でした。妻と、長男の棟一郎を重ねている。名もなき働き手の絵に、彼は自分の家族を描き込んでいたのです。[4]

もうひとつの、やわらかな目
険しい社会派かと思えば、そうとも言い切れません。子供の頃から工夫好きで、手製の幻灯機で村の子供たちを楽しませる少年でした。画家になっても子供をよく描き、旅先で出会った子に贈った小品の裏には、たどたどしい片仮名で礼が書きつけてあります。「コノ絵ヨチカチャンニアゲマス、オ顔ヨカムセテクレタオレイニ」。[4]
荒れた海の峻厳さと、子供に向けるやわらかな目。その振れ幅の大きさが、前田寛治という画家です。
海へ帰る
冒頭の問いに戻りましょう。働く人々を描いた画家が、なぜ最後に海へ帰ったのか。荒れた日本海の青黒さは、彼の絵の出発点であり、飾りを削ぎ落とした先にある「本物」そのものでした。生い立ちの色と、生涯かけた写実とが、最後の一枚で溶け合ったのです。[4]
青・赤褐色・黒を主調にした彼の作風は「前寛ばり」と呼ばれ、画壇に確かな影を落としました。写実を日本に根づかせようとした先駆は、三十三歳で、伝説を残して逝きました。[1,3]
今年は前田の生誕130年であり、彼が設立に加わった一九三〇年協会の100年でもあります。会場では、協会の仲間たちの作品もあわせて紹介されます。[2]
彼が生涯描いたのは、普段は絵にならない働き手たちであり、その中心にはいつも、名もない一人の人間がいました。誰を見て、誰を見ないのか。前田寛治の眼差しは、働く人がすぐ隣にいる私たちの時代にも、少しも古びていません。深い紺青の質感も、床に流し込まれた絵具の厚みも、写真では分かりません。あの海の前に立ってはじめて、彼が命を削って掴もうとした「本物」に出会えるはずです。




