33歳という、あまりにも短い光
もし、たった33年の生涯で「流行語」になるほどの筆致を残した画家がいたとしたら、あなたはどんな絵を思い浮かべるでしょうか。前田寛治——帰国後の日本の画壇を沸かせ、「前寛ばり」という言葉まで生んだ洋画家です。1930年、入院先の病室で大作『海』を描き上げ、その年の4月に鼻孔内腫瘍のため世を去りました。33歳。あまりに早い幕切れです。[1]
けれど残された作品を前にすると、短さではなく、そこに込められた「実在するものへの渇望」のようなものが伝わってくるのではないでしょうか。今回の展覧会は、そのまなざしを行く前に少しだけ辿ってみる時間になりそうです。
国坂の影——あの青黒さは、どこから来たのか
前田寛治は鳥取県に生まれました。郷里は国坂。のちに彼の絵を決定づける青黒さ、濃いビリジァン、赤褐色——そうした色への好みは、この郷里と密接に関わっていたと評されています。芸術も生活も、郷里の風土性、すなわち「山陰色」が濃厚だった。同時代の人はそう証言しました。[3,4]
けれどそれは、無自覚に滲み出たものではなかったようです。のちに門下へ入った西垣武雄に、前田はこう言っています。「君は、君の生まれ育った山陰の、一見単調とも見えるグルーミーな自然の色調から逃れることは出来ないのだ」。自分の青黒い色調が山陰の風土特有の色であること、そもそも色彩は育った環境から出られないことを、彼はよく承知していました。山陰に育ったから色が暗くなるのは仕方がない——そう認めたうえで、むしろその暗さに居直り、自らの持ち味に変えていったのです。[4]
少年の頃の寛治は、おとなしく、絵の好きな子どもでした。石板に石筆で絵を描きながら、妹や年下の子に昔話をしてやる。海軍省勤めの叔父から届く少年雑誌は、田舎の子には手の届かない都会の文化と新知識への窓口でした。その雑誌で知った方法でガラス板を貼り合わせて幻灯機をつくり、軍人や汽車の絵を自分で描いて近所の子を集め、ローソクの火で幻灯会を開いたといいます。頭脳が緻密で手が器用だった、と評される少年でした。[4]
パリへ、クールベと出会う
前田は1921年に東京美術学校を卒業し、翌1922年末にはヨーロッパへ渡って、パリを拠点に活動を始めます。留学直前には一種の点描法で描いていたと伝わりますが、パリのアカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエールで彼が没頭したのは、クールベの写実主義でした。[1,3]
周囲の画家たちがフォーヴィスムへと向かうなか、前田はむしろ西洋絵画の根幹にあるリアリズムへ深く傾倒していきます。クールベの写実に人間的な共感を抱いたとされる彼は、この地で「質感、量感、実在感の三要素」として対象を捉える方法論を自覚しました。ものが確かにそこに在ること——その手応えを、絵の中にどう定着させるか。[3]
パリでは、同郷のマルクス主義理論家・福本和夫と再会し、思想的な感化を受けたと伝わります。1923年には「二人の労働者」を、そして社会の底辺に生きる人々や工場を主題とした作品群を手がけました。佐伯祐三や里見勝蔵らとも交わり、仲間を「パリーの豚児」と名付けたというエピソードには、若い画家たちの熱気が滲んでいるように感じられます。[1,3]

「前寛ばり」——ずっしりと重い色彩
1925年に帰国すると、前田の作風は形態把握のしっかりした重厚な写実へと変化していきます。「裸婦」や「黒衣婦人像」といった、古典的な雰囲気をたたえた作品もこの頃のもの。空間の処理と、ずっしりと手に重いような色彩の感覚——それが彼の画面の手触りです。[3]

人物写実画の名手として知られた前田は、古典的な構図とフォーヴィスム的な筆致を融合させ、「前寛ばり」という流行語を生むほど当時の芸術界に影響を与えたと伝わります。労働者を描いた作品や、「ポーランド人の姉妹」のような主題、さらには重要文化財に指定された「赤い帽子の少女」。モデルには、後に「別れのブルース」で知られる歌手・淡谷のり子が務めたこともありました。写実の探求と、時代の空気とが交差する場所に、彼の絵はあったのではないでしょうか。[1,3]
後進を育て、団体を率いる
1928年、前田は東京・杉並区にアトリエ兼自邸を建て、「前田写実研究所」を開設します。新写実主義を標榜し、後進の指導にあたりながら、みずからも写実画の探求を深めていきました。同じ頃、彼は1930年協会を結成し、その支柱として活動しています。[1,3]
一方で帝展では特選を重ね、1929年には帝国美術院賞を受賞し、同年には審査員にも選ばれました。描くこと、教えること、団体を率いること。その活動の密度を思うと、33年という時間の中に、いくつもの役割が詰め込まれていたことに気づかされます。[1]
絶筆『海』——病室で描かれた大作
そして1930年、前田は入院先の病室で、絶筆となる大作『海』を完成させました。病を抱えながら筆をとり、その年のうちに世を去っています。海という、果てしなく広がるものを、彼は最後にどんな思いで見つめていたのでしょうか。実在するものの質感・量感・実在感を追い続けた画家が、たどり着いた画面。想像するだけで、胸に静かなものが差してくるのではないでしょうか。[1]

会場で、確かめてほしいこと
パリで学んだ写実、社会への視線、そして「前寛ばり」と呼ばれた筆致。前田寛治の絵の魅力は、図版だけでは伝わりきらない「重さ」にあるのかもしれません。ずっしりと手に重い色彩、対象がそこに在ることの手応え——それは実物の前に立ってこそ、感じられるものではないでしょうか。
1925年と1928年の「裸婦」、重要文化財の「赤い帽子の少女」、労働者やポーランド人の姉妹を描いた作品、そして絶筆『海』。33歳で駆け抜けた画家が残したまなざしを、どうぞ会場でゆっくり確かめてみてください。


