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美術館展覧会

Artist

Ogata Kōrin

Japan, 1658–1716

作品(1

年表

1658

京都の裕福な呉服商「雁金屋」の次男として誕生。父・宗謙は書道や能楽に精通した文化人で、光琳は幼少期から洗練された美意識に触れて育ちました。この背景が後の華麗なデザイン感覚の礎となりました。1

1694

莫大な遺産を相続した光琳は放蕩三昧の生活を送り、経済的に困窮しました。1694年には家宝を質に入れるほどでしたが、この逆境が本格的に絵師としての道を歩み始める大きな転機になったと言われています。1

1701

代表作『燕子花図屏風』では、型紙を使用した形跡があり、同じ図案を繰り返すことでリズム感を生み出しています。伊勢物語のエピソードを、橋を描かずに表現する大胆な抽象化が大きな特徴です。1

絵師としての活動が本格化したのは40代以降と遅咲きでした。1701年には僧位の「法橋」を授与され、これを機に代表作『燕子花図屏風』などの傑作を次々と世に送り出す黄金期を迎えました。1

1704

1704年に江戸へ下向し、大名家からの依頼を受ける一方で、雪舟や雪村といった中世の水墨画を研究しました。この経験が、光琳の画風に力強い筆致や深みをもたらす影響を与えたと考えられています。1

1712

晩年の傑作『紅白梅図屏風』では、輪郭線を描かずに色を置く「光琳梅」と呼ばれる技法や、色が乾かないうちに別の色を垂らす「たらし込み」を駆使し、装飾性と写実性を高度に融合させました。1

1712年、京都の新町通りにアトリエを構えた屋敷を新築しました。人生の最後の5年間を過ごしたこの場所で、最高傑作とされる『紅白梅図屏風』が描かれたと推測されています。1

1815

光琳の死後100年を経て、酒井抱一がその画風を熱心に研究し、模写や展覧会を通じて光琳の名を世に広めました。抱一の尽力により、光琳のスタイルは江戸琳派として現代まで受け継がれることとなりました。1

出典

  1. [1]en.wikipedia.org

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