第5章 ・ 読む
空間を手なずける — 遠近法と、忍び寄る死
平らな板の上に、本物の奥行きが生まれました。

平らな板の上に、奥行きが生まれる。それだけで聞けば不思議でも何でもないように聞こえますが、ルネサンスの人々にとって、これは革命でした。
遠近法とは、画面の中のある一点(これを「消失点」と呼びます)に向かってすべての線を集めることで、まるで窓の外の景色を眺めているような立体的な空間を生み出す技法です。建物の廊下を思い浮かべてください。両側の壁が遠くに行くほど狭まって、最後に一点に消えていくあの感覚。あれを、絵の中で意図的に作り出すのです。
ここで大切なのは、「誰の目から見た空間か」という問いです。消失点は、見ている人間の視線の高さにぴったり合わせて設定されます。つまり遠近法とは、世界を「人間の目」を基準に組み直す技術にほかなりません。神様の視点でもなく、概念的な図式でもなく、あなたが今ここに立って見ているその空間——それを正確に再現しようとする試みです。他の章でお話しした「人間が主役になる」という時代の精神が、絵の構造そのものに刻み込まれているのです。
イタリアで生まれたこの技術は、やがて北ヨーロッパへと渡り、北方ならではの緻密な観察眼と結びついていきます。そして16世紀のイングランド王室に仕えた一人の画家が、遠近法を使うだけでなく、それを「崩すこと」によって、見る者に忘れがたい問いを投げかけました。
その画家はドイツのアウクスブルクに生まれました。


父もまた高名な画家であり、息子は幼い頃から工房で技を磨きました。やがてイタリアへ旅してルネサンスの空間表現を吸収し、北方の写実性と融合させた独自の様式を確立します。宗教改革の嵐が吹き荒れる中でも両陣営の顧客のために働き続け、最終的にヘンリー8世の宮廷画家として激動の時代を絵筆で記録した人物です。
この画家が1533年に描いた作品には、二人の知性あふれる外交官が立ち、天文・航法・音楽の道具が並ぶ棚が据えられています。

中央のテーブル上の器具と書物
細部
知識と富のすべてを画面いっぱいに詰め込んだこの絵に、ひとつだけ説明のつかないものが紛れ込んでいます。正面から見ると床に伸びる正体不明の染みが、画面の端から斜めに覗き込んだとたん、人間の頭蓋骨として現れるのです。

アナモルフォーズの頭蓋骨
細部
これを「アナモルフォーズ」——特定の角度からだけ正しく見える歪み絵——と言います。遠近法という空間を支配する技術を、あえて逆手に取った仕掛けです。
さらに左の人物の帽子には、小さな頭蓋骨のメダルが飾られています。

左の人物の顔
細部

左の人物(ジャン・ド・ダンヌヴィル)
細部
知識の絶頂を誇る画面の中に、大小ふたつの「死」が忍び込んでいる。「メメント・モリ」——死を忘れるな——という言葉を、この画家は声高に叫ぶのではなく、空間の仕掛けとして静かに埋め込みました。
人間の視点で世界を征服した時代が行き着いた先に、征服できないものがあった。その問いが今も、この絵を見る私たちに向けて、床の上で静かに横たわっています。
出題出題されやすい語重要語地名・年号・概念・技法