
自然の前で、人はなぜ畏れ、見とれるのか
3 works
自然の前で、人はなぜ畏れ、見とれるのか
神が世界の意味の源だった時代が遠ざかったとき、人間を超えるものの居場所は、どこへ行くのか。山の中に佇む信仰の像、光に満ちた広大な渓谷、荒れ狂う嵐の海——画面の中で人間はやけに小さい。恐ろしさと畏れが入り混じる、その感覚を人は「崇高」と呼んだ。神が退いたあと、超越の場所を自然そのものが引き受けていく——そんな移ろいを、ふたりの声でたどる。
前にお話ししたとき、意味の在りかが『自然の光』へと移っていく様子が心に残っています。もし神が去ったあとの世界で、自然がその役割を引き受けたとしたら、人はそれをどう見つめるのでしょうか。それは今日、私たちが一緒にたどる「崇高」という感覚に繋がっていきそうです。かつて神がいた場所に、圧倒的な自然の力が座る。そのとき人が抱く、恐ろしさと畏れが入り混じる感覚を静かに見ていきましょう。このフリードリヒの作品では、険しい岩峰の頂に小さなマドンナ像が置かれていますね。でも、主役は像というよりも、それを取り巻く巨大な山の塊のように見えます。そう読めますね。像を支える中央の岩峰は影に沈み、重厚な存在感を放っています。フリードリヒは、自然は神の啓示であるという教えを受けていたそうです。手前にあるシルエットの木が、遠くの山をより一層、手の届かない巨大なものに感じさせている気がします。信仰の象徴が、自然の大きさに呑み込まれていくような。この作品は油彩ではなく、インクやセピアで描かれています。その繊細な線が、自然に対する主観的で、どこか寂寥感のある反応を伝えているようにも感じられますね。神が退いたあとの超越的な場所を、この険しい自然が引き受け始めている。そう考えると、この静けさが少し違って見えてきます。ええ。畏敬の念は、次に訪れる広大な光のなかで、より純粋な形となって現れるかもしれません。
先ほどの山の静寂とは打って変わって、こちらは画面全体が黄金色の光に満たされていますね。目がくらむような広がりです。ギフォードが描いたニューヨーク州の渓谷です。中心にある太陽の光が、大気そのものを黄金色に染め上げていますね。彼はこうした光の効果をとても大切にしていました。光に満ちた渓谷の奥の方は、霞んでいて底が見えません。このあまりの広大さは、美しさと同時に、どこか人を突き放すような感覚も覚えます。よく見ると、岩棚の上に小さな人物が立っています。この巨大な自然のスケールに対して、人間がいかに小さな存在であるかが示されているようにも読めます。本当に、豆粒のようですね。以前見た「意味の在りか」としての光が、ここでは畏敬の対象そのものとして、圧倒的な広がりを持って迫ってくるようです。ルミニズムと呼ばれるこの様式は、光を通じて無限を感じさせます。美しさに圧倒され、言葉を失う。これもまた崇高の一つの側面と言えるでしょう。この光に包まれていると心地よさも感じますが、もしこの自然が牙を剥いたらと思うと、少し背筋が寒くなります。そうですね。崇高が持つもう一つの顔、逃げ場のない「恐ろしさ」についても、最後に向き合ってみましょう。
今度は、耳を劈くような波の音が聞こえてきそうです。穏やかな光の渓谷とは対極にある、荒れ狂う嵐の海ですね。ウィンスロー・ホーマーが描いたメイン州の海岸です。砕ける波の白さと、嵐をはらんだ重い雲が、自然の剥き出しの力を伝えています。ターコイズブルーの海面が美しくもあり、同時にすべてを飲み込んでしまうような底知れぬ怖さを感じます。ここには、人間が入り込む隙が一切ありませんね。写実主義の画家である彼は、自然の力強さをありのままに捉えようとしました。この激動する水面を見ていると、私たちの制御を超えた何かがそこにあるように感じられます。山に佇む像、光の渓谷、そしてこの荒れる海。どれもが、人間を超えた「超越したもの」の居場所を、自然のなかに見出そうとしていたのでしょうか。美しさと恐ろしさ。その両面が一つになった「崇高」という感覚を通じて、人は神亡きあとも、自分たちより大きな存在に触れようとしたのかもしれません。外にある巨大な自然に、自分の内側の感情を重ねていたのですね。でも、もしその「荒野」が自分たちの心の内側にもあるのだとしたら……。内なる自然、あるいは内なる深淵。それはまた、いつか別の機会にゆっくりと考えてみたい問いですね。