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Le Pont aux Anglais, soleil couchant

Robert Antoine Pinchon
Date1905
Departmentcanvas
SourceWikipedia
画像出典Wikimedia Commons ・ パブリックドメイン

この作品について

描かれているもの

作品の舞台「イギリス人の橋」という名は、建設に従事した労働者の多くが英国人だったことに由来します。地元では「オプレの高架橋」とも呼ばれ、パリとル・アーヴルを繋ぐ鉄道の要所でした。[1] 画面を支配する橋の連続するアーチと、右へと消えていく列車の遠近法が、鑑賞者の視線を巧みに誘導します。静止した風景の中に、工業化時代の「リズム」を視覚的に組み込んだ構成が秀逸です。[1] 蒸気を上げて疾走する列車の姿は、当時の新興工業化社会へのオマージュです。伝統的な風景画に近代的なダイナミズムを持ち込み、ポスト印象派としては珍しい「動き」と「速さ」を表現しています。[1]

技法と様式

この作品はスタジオではなく、屋外で直接風景を見て描く「外光派(プレネール)」の手法で制作されました。刻一刻と変化するセーヌ川の光を捉えるため、パンションは現場の空気感そのものをキャンバスに定着させました。[1] 沈みゆく夕日の黄金色と、影を彩る白熱したような青色の対比が特徴的です。野獣派(フォーヴィスム)の影響を感じさせる鮮烈な色彩感覚が、静かな夕暮れの風景に強烈な生命力を吹き込んでいます。[1]

背景と物語

パンションは1909年に「ノルマンディー現代絵画協会」を設立。マティスやブラックといった後の巨匠たちを惹きつけました。本作はその活動の絶頂期に、地元ルーアンの美術館に収蔵された記念碑的作品です。[1] 1909年のルーアン美術館の展覧会では、モネ3点、シスレー9点、ルノワール1点という豪華な顔ぶれの中に、若干23歳のパンションの作品が4点も選ばれ、その才能が公に認められることとなりました。[1] 1909年にこの作品がルーアン美術館に買い上げられた時、作者のパンションはわずか23歳でした。若くしてモネやルノワールといった巨匠たちの作品と並んで展示されるという、異例の快挙を成し遂げたのです。[1] 描かれた橋の前身は、1848年の暴動で放火されるという悲劇に見舞われました。パンションが描いたのは1856年に鋳鉄で再建された姿ですが、それも強度が足りず、後に架け替えられる運命にありました。[1]