

Ivan the Terrible and his son Ivan on November 16, 1581
Ilya Repinこの作品について
描かれているもの
舞台は17世紀のロマノフ家貴族の館をモデルにし、椅子や鏡などの小道具はクレムリンの武器庫にある実物を写生しました。凄惨な場面に、徹底した歴史的リアリズムが重厚さを与えています。[1] 当初のスケッチでは皇帝が凶器の杖を握っていましたが、完成作では杖を床に転がしました。暴力を振るう瞬間ではなく、取り返しのつかない過ちに気づいた直後の「絶望と後悔」に焦点を当てるためです。[1] 皇帝の左手は、息子のこめかみから流れる血を必死に止めようとしています。しかし、その指の間から溢れる血は、犯した罪の不可逆性と、もはや手遅れであるという残酷な現実を強調しています。[1]
背景と物語
瀕死の皇太子のモデルには、作家のフセヴォロド・ガルシンが選ばれました。レーピンは彼の顔に「滅びゆく運命にある者の予感」を見出し、それが悲劇の犠牲者を描くために不可欠だと直感したといいます。[1] 狂気に満ちた皇帝のモデルを務めたのは、レーピンの友人である画家のグリゴリー・ミャソエドフでした。親しい友人の顔を借りることで、人間の内面に潜む生々しい感情を表現することに成功しました。[1] 1881年の皇帝アレクサンドル2世暗殺事件と、その実行犯の公開処刑をレーピンが目撃したことが制作の動機となりました。現代の政治的暴力への恐怖が、300年前の歴史的悲劇を描く筆を動かしたのです。[1] 制作中、レーピンは精神的に追い詰められ、泣きながら描き、描いては消す作業を繰り返しました。あまりの苦痛に作品を隠してしまうこともありましたが、何かに突き動かされるように完成へと向かいました。[1] リムスキー=コルサコフの交響組曲『アンタール』、特に「復讐」の楽章に強く触発されました。レーピンはその音楽が持つ復讐の情念を、絵画として具現化したいという強い衝動に駆られたと回想しています。[1] 1883年のヨーロッパ旅行で目撃した「闘牛」の流血シーンが、本作の血の描写に影響を与えました。死と暴力が人を引きつける不気味な力を、レーピンはキャンバスに生々しく叩きつけたのです。[1] 1581年の凄惨な事件を描いた本作は、奇しくもそのちょうど300年後、血塗られた政治情勢に揺れる1881年のロシア社会への、レーピンなりの回答でもありました。[1]