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Artist

Nikolai Yaroshenko

作品(1)

年表

1862

1862年、士官候補生時代に上官の虐待に抗議する集団行動を組織し、階級剥奪と独房監禁の処分を受けました。この若き日の反骨精神は、後に社会の不正を描く彼の芸術的信念の根底に流れ続けています。1

1876

彼は「移動派」の指導者イワン・クラムスコイに師事しました。クラムスコイが移動派の「知性」と呼ばれたのに対し、ヤロシェンコはその誠実で厳格な性格から「移動派の良心」として仲間から深く信頼されました。1

ヤロシェンコは、サンクトペテルブルク弾薬工場の工場長という要職を務めながら、移動派の理事として展覧会の運営に尽力しました。軍の近代化と芸術の革新という、二つの異なる分野で足跡を残した人物です。1

1884

コーカサス地方の壮大な風景を描き、批評家スタソフから「山の肖像画家」と称賛されました。当時、未開の地だったコーカサスの連峰をあまりに鮮烈に描いたため、観客の中には空想の産物だと疑う者もいたほどです。1

1885

キスロヴォツクの自宅「白い別荘」は、メンデレーエフやラフマニノフ、レピンら一流の文化人が集うサロンとなりました。文豪トルストイも、家出の際の避難先として彼の家を候補に考えていたと言われています。1

1892

ヤロシェンコは、ロシア帝国の少将という軍人の顔を持ちながら、19世紀後半のロシア・リアリズム美術を牽引した異色の画家です。軍務の傍ら、社会の苦難や知識人の精神性を鋭く描き出しました。1

1897

晩年は持病の結核に苦しみながらも、イタリア、シリア、パレスチナ、エジプトを巡る大旅行を敢行しました。病に侵された体で各地をスケッチし、最期まで創作への情熱を失うことはありませんでした。1

1898

彼の死は劇的でした。山での戸外制作中に激しい雨に見舞われ、自宅までの10キロの道のりを走り抜いた直後、心臓発作で息を引き取りました。まさに芸術に命を捧げた壮絶な最期でした。1

出典

  1. [1]en.wikipedia.org