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Bronzino (Agnolo di Cosimo di Mariano)
Bronzino (Agnolo di Cosimo di Mariano)

Artist

Bronzino (Agnolo di Cosimo di Mariano)

作品(1)

年表

1503

フィレンツェの肉屋の息子として生まれ、本名はアニョーロ・ディ・コジモ。通称の「ブロンズィーノ」は、彼の褐色の肌や赤みがかった髪の色に由来すると考えられています。1

1517

マニエリスム初期の巨匠ポントルモに14歳で弟子入りしました。師の影響を強く受けつつも、ポントルモの動的な表現に対し、ブロンズィーノは静寂で抑制された独自のスタイルを確立しました。1

1525

愛弟子のポントルモとは生涯にわたり協力関係にありました。サンタ・フェリチタ聖堂のカッポーニ礼拝堂の装飾では、師のポントルモと共に制作にあたり、二人の筆致は区別が難しいほど似通っています。1

1539

30代後半からトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチの宮廷画家として活躍しました。メディチ家の人々の肖像画を数多く描き、外交的な贈り物としての複製画制作も主導しました。1

1540

アンドレア・ドリアをネプトゥヌスに見立てた肖像画のように、実在の人物を神話の神として裸体で描く「寓意的肖像画」という、当時としては非常に珍しく魅力的な試みも行っています。1

1540年代、ヴェッキオ宮殿内のエレオノーラ・ディ・トレド礼拝堂の装飾を手掛けました。ここで彼は、盛期ルネサンスの均衡から、より様式化された宮廷的なマニエリスムへとスタイルを変化させました。1

1544

代表的な寓意画『ヴィーナス、クピド、愚行と時』では、道徳的な寓意という名目のもと、マニエリスム特有の洗練されたエロティシズムと複雑な構成を融合させています。1

1545

代表作『エレオノーラ・ディ・トレドと息子ジョヴァンニ』では、衣装の細部まで緻密に描写されています。あまりに豪華なドレスの描写は、実物ではなく画家の想像によるものという説が出るほどでした。1

1563

1563年に設立されたフィレンツェの「アカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョ(芸術アカデミー)」の創設メンバーの一人として、晩年は芸術教育の振興にも尽力しました。1

1569

ミケランジェロを崇拝しており、晩年の大作『聖ラウレンティウスの殉教』では、登場人物の複雑なポーズのほとんどがラファエロやミケランジェロの作品から引用されています。1

出典

  1. [1]en.wikipedia.org