Artist
Asher Brown Durand
年表
時計職人であり銀細工師でもあった父のもと、11人兄弟の8番目として生まれました。幼少期から金属加工の技術に触れていたことが、後の精密な彫版技術の習得に大きな影響を与えたと考えられています。1
デュランドは当初、優れた彫版師として名を馳せました。1823年にジョン・トランブルの「独立宣言」を彫版したことで国内最高の彫版師としての地位を確立し、その精密な技術は高く評価されました。1
1830年頃、パトロンであるルーマン・リードの勧めにより、彫版から油彩画へと活動の軸を移しました。この転換が、後に彼をハドソン・リバー派を代表する風景画家へと導く重要な契機となりました。1
1837年、友人のトマス・コールと共にアディロンダック山地へ写生旅行に出かけたことで、風景画に専念する決意を固めました。コールの影響を受けつつ、独自の写実的な風景画のスタイルを確立しました。1
1825年にナショナル・アカデミー・オブ・デザインの設立に尽力し、1845年から16年間にわたり会長を務めました。彼はアメリカの芸術界を牽引し、若手芸術家の育成や組織の発展に大きく寄与しました。1
彼の彫版技術はアメリカ初の郵便切手にも採用されました。1847年に発行された最初の切手シリーズの肖像画には、デュランドが紙幣用に制作した彫版が使用されており、国家的なプロジェクトに貢献しました。1
代表作『類まれなる魂』は、亡き友トマス・コールへの追悼として描かれました。2005年のオークションでは、当時の米国絵画の最高額とされる約3,500万ドルで落札され、大きな話題を呼びました。1
1853年の作品『進歩』は、鉄道や電信といった文明の発展を壮大な風景の中に描いています。2018年には約4,000万ドルで購入され、バージニア美術館に寄贈されるなど、今なお高い評価を得ています。1
美術雑誌『クレヨン』に連載した「風景画に関する書簡」を通じて、自身の芸術理論を広めました。これは当時のアメリカの風景画家たちに多大な影響を与え、ハドソン・リバー派の理論的支柱となりました。1