
Artist
Grant Wood
United States, 1891–1942
年表
青年時代には金属細工師の見習いとして働き、シカゴ美術館附属美術大学でも銀細工を学びました。この工芸的な背景は、後に彼が手がけたステンドグラスのデザインや、絵画における細部へのこだわりにも反映されています。1
第一次世界大戦末期にはアメリカ陸軍に従軍し、カモフラージュ(偽装)のデザインを担当しました。この経験は、対象を観察し、視覚的な効果を計算して構成する彼の芸術的スキルの形成に寄与しました。1
1924年から約10年間、アイオワ州シーダーラピッズにある馬車小屋の干し草置き場を改造してアトリエ兼住居としていました。彼はここを「5ターナー・アレイ」と名付け、多くの重要な作品を制作しました。1
1928年頃、ドイツ訪問中に15世紀のフランドル絵画、特にヤン・ファン・エイクに感銘を受けました。この出会いが、後の作品に見られる緻密で明快な描写スタイルを確立する決定的な転機となりました。1
アイオワ州エルドンで見つけた、中世風の尖頭アーチ窓を持つ「ゴシック・リバイバル様式」の家から着想を得ました。彼はその家にふさわしいと想像した人物像を組み合わせ、アメリカ美術の象徴を生みました。1
代表作『アメリカン・ゴシック』のモデルは、実の妹ナンと歯科医のマキービーです。妹は、自分が農夫の妻ではなく「独身の娘」として描かれるよう兄に強く要望したという逸話が残っています。1
ヨーロッパの抽象芸術を拒絶し、アメリカ中西部の農村風景を具象的に描く「リージョナリズム(地方主義)」の旗手となりました。彼はこの運動を推進し、ベントンら他の画家の中西部への帰還を促しました。1
『アメリカン・ゴシック』は当初、田舎の狭量さを皮肉った風刺画と見なされましたが、大恐慌が進むにつれ、困難に立ち向かう不屈のアメリカ精神の象徴として、国民から広く受け入れられるようになりました。1
世界恐慌下の1932年、困窮する芸術家を支援するために「ストーン・シティ・アート・コロニー」を設立しました。彼は芸術による地域振興を信じ、全米各地でリージョナリズムの重要性を説く講演を行いました。1
アイオワ大学で教授を務めていた際、後に著名な彫刻家・版画家となるエリザベス・キャトレットを指導しました。彼は学生たちに、自分たちの身近な環境や経験を題材にすることの重要性を教え込みました。1