上村松園(1875–1949)は、生涯一貫して美人画を描いた日本画家です。京都府画学校に学び、鈴木松年、幸野楳嶺、竹内栖鳳に師事しました。1890年、第3回内国勧業博覧会に出した《四季美人図》で一等褒状を受けています。[1,2]
「女性は美しければよい、という気持ちで描いたことは一度もない」。松園はこう書き、「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである」と続けています(「棲霞軒雑記」)。嫉妬に燃える生霊、子を抱く母、静かに舞う令嬢。三つの作品を、細部と動画でたどります。[3]
「たった一枚の凄艶な絵」《焔》
《焔》(1918年)について、松園は「私の数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵」と書いています。謡曲「葵の上」に出てくる六条御息所の生き霊から想を得て、「中年女の嫉妬の炎」を描いたものです。はじめの題は「生き霊」でしたが、謡の師の金剛巌の助言で「焔」に改めました。[4,5]
女は振り向きながら、黒髪の一房を手でつかみ、口にくわえています。白地の着物の模様は、藤の花とそれにからむ蜘蛛の巣です。松園は翌1919年の雑誌の談話で、蜘蛛の巣を使ったのは謡曲「鉄輪」の文句があるうえ、「蜘蛛の巣は大層凄味を感じさせるから」だと語っています。[5,6]

この頃、松園は仕事の上で行き詰まっていました。「どうにも切り抜けられない苦しみをああいう画材にもとめて、それに一念をぶちこんだのでありましょう」。《焔》を描くと、不思議と気持ちがなごんだとも書いています。[4]
母を亡くした年の《母子》
1934年2月、松園の支えであった母の仲子が亡くなりました。その年の秋の帝展に出したのが《母子》です。眉を剃り、お歯黒をした明治の京都の町家の婦人が、幼子を抱き上げています。眉を剃った女性の姿にも、母への追慕が形になっているとされます。[7,8,9]
松園は、母性愛を描いたのは「この母の愛が心に沁みていたから」だと書いています(「今日になるまで」)。絵の発想は、昔、大きなお店にかかっていた、はん竹の簾の記憶でした。その前にいろいろの人物を立たせてみて、もっとも心に適ったのが母子の姿だったといいます。[9,10]

背景の簾は極めて細かく描かれ、画面の左は余白のまま残されています。簾にさえぎられた奥の広がりを思わせる構成です。[7]
理想の女性の姿《序の舞》
1936年の《序の舞》は、現代の令嬢が謡曲を舞う姿を描いた作品です。松園はこの絵を「私の理想の女性の最高のものと言っていい」と書き、「何ものにも犯されない、女性のうちにひそむ強い意志」を表したかったと述べています。[1,4]
モデルには、嫁、謡の先生の娘、女の弟子たちを使いました。はじめは丸髷の新夫人として写生を始めましたが、舞の型の「二段おろし」では、短い留袖では袖が返りません。袖を返すところに「絵の生命」が生まれるとして、振袖の令嬢に改めています。扇を持つ手は、家じゅうの女に扇子を持たせて写し、いちばんよい形を理想の手に描き直しました。[4,10]

文化庁の解説は、特定の文学的主題によらず、同時代の風俗で古格のある作品を描いた点に、松園の作品の特質がよく表れていると見ています。この絵は政府の買い上げとなり、2000年に重要文化財に指定されました。[1,7]
女性として初めての文化勲章
1948年、松園は女性として初めて文化勲章を受けました。翌1949年に亡くなっています。[1,2]
松園の作品は、能に題材を求めたものと、母性を主題にしたものの二つの系統が中心だとされます。《焔》と《序の舞》は前者、《母子》は後者です。[1]


