ノルウェーの画家といえば、ムンクの名がまず浮かぶかもしれません。けれど同じ時代に、都会にも国外の流行にも背を向け、生涯をかけて故郷の谷ひとつを描き続けた画家がいました。ニコライ・アストルップ——「ノルウェーを代表するもう一人の巨匠」と呼ばれながら、日本ではこれまで、その作品にまとまって出会う機会がほとんどありませんでした。[7]
この冬、東京駅・丸の内の赤レンガ駅舎に直結した東京ステーションギャラリーで、「ニコライ・アストルップ 創造する庭」が開かれます。アストルップの日本初となる本格的な回顧展です。夏至祭の火、北斎に学んだ木版画、自らの手で開墾した庭——西ノルウェーの奥深い谷から生まれた世界が、油彩と木版画あわせて約130点で並びます。はじめて出会う名前でも、大丈夫。行く前に知っておきたい見どころを、やさしく案内します。[7]
| 展覧会 | ニコライ・アストルップ 創造する庭(日本初の回顧展) |
|---|---|
| 会場 | 東京ステーションギャラリー(JR東京駅 丸の内北口 直結) |
| 会期 | 2026年11月21日(土)〜2027年1月31日(日) |
| 出品 | 油彩と木版画 約130点 |
そもそも、アストルップとは

アストルップは1880年、ノルウェー西海岸のフロヤ島カルヴォーグに生まれ、1883年からは父が牧師を務めたイェルステル湖畔の村で育ちました。1895年には聖職者の道を望む父によってトロンハイムの大聖堂学校へ送られますが、そこで美術館に通い、近代の画家たちの作品に触れます。神学の道ではなく、絵の道へ。1899年にはクリスチャニアの女性画家ハリエット・バッケルの画塾で学び、絵画の研鑽を積みました。[1,4]
けれど、彼は都に留まりませんでした。1902年に故郷イェルステルへ戻り、以後の創作の源泉をこの土地に置いたのです。イェルステルは高い山々に囲まれた長く狭い谷で、方言も文化も古ノルド語に根ざした、伝統的な生活様式が残る場所でした。アストルップは自らの芸術を特定の土地に深く根ざしたものと定義し、他の画家や同時代の運動からの直接的な影響を否定していたといいます。谷にこだわり続けた画家、と呼びたくなります。[4,6]
夜、息が苦しくて眠れない
アストルップは生涯を通じて重い喘息を患っていました。発作はたいてい夜に起こり、そのために夜の散歩を余儀なくされていた、と評伝は記しています。[6]
喘息は母方から受け継いだ体質とされ、兄クリスチャンやその子どもたちにも同じ症状がありました。人生の20年近くを過ごした牧師館では、交換の少ない藁のマットレスの埃とカビが、発作の原因になっていたといいます。[6]
激しい発作で意識を失ったとき、妻エンゲルが樟脳の薬を飲ませて蘇生させたことがありました。自然療法から、輸入された「スネークオイル」、アドレナリンの自己注射まで、彼はあらゆる手を試しています。[6]
インゲ・ロムスロー博士は論文で、喘息と、そのために服用していた薬が、彼の色彩感覚に影響を与えたと結論づけました。ただし、彼が描いた夜の絵とこの夜歩きを結びつけて語る記述は、評伝にはありません。分かっているのは、彼が夜に起きていた人だった、ということです。[6]
暗い谷に燃える、ひとつの火
まずは、この画家の代名詞から。深い谷間の底に、巨大な火柱が燃え上がる——夏至祭の焚き火です。炎はまわりの山々を、そして集まった人々の姿を照らし出し、闇との対比のなかでゆらめきます。ノルウェー西部イェルステルの谷に伝わる、聖ヨハネ祭の前夜に焚かれるかがり火。アストルップはこの主題を1906年から1912年にかけて何度も描き、なかには14年もの歳月をかけて仕上げた大作もあります。[3,4]

北国の夏は短く、夜も深く暗くなりきりません。そのわずかな季節の生命力を、火が象徴しているかのようにも感じられます。炎の揺らぎや立ちのぼる煙のなかに、自然に潜む何かの息づかいを見てとってしまうのは、私だけではないのではないでしょうか。会場では、この火の絵の前で、しばらく足を止めてみてください。[3]
パリで出会った、北斎の木版画
そんな彼にも、外の世界へ出た時期がありました。1901年から翌年にかけて、美術収集家の支援を受け、パリのアカデミー・コラロッシでクリスチャン・クローグに師事します。このパリ留学中、彼はアンリ・ルソー、モーリス・ドニ、ポール・ゴーギャン、そして葛飾北斎の作品を研究しました。ゴーギャンら西洋の画家の木版画に親しみ、クリスチャニアではエドヴァルド・ムンクの制作の様子を観察してもいます。[4,6]
やがてアストルップは、ムンクと並んでノルウェーにおける近代木版画の先駆者と見なされるようになります。彼の版木には主にハンノキが用いられ、プレス機を使わず、手や木片で紙の裏をこする「日本式」の手法で刷られました。版木に直接油絵具を塗り、刷ったあとにも筆で彩色を重ねる。だから一点ごとに表情が異なり、本人は「版画というより絵画に近い」と評していたそうです。木版画《ジギタリス》は、多色刷りと正確な紙の配置に精度を要し、数部を刷るのに2ヶ月以上を費やしたといいます。ムンクも彼の版画を高く評価し、《少年の頭部》を含む3点を購入しました。[4,6]
この木版画の質感——刷りムラや、手でこすった紙のあたたかみ——は、画面ではほとんど伝わりません。会場は、その一点ずつの表情を確かめられる貴重な機会です。ぜひ間近で。
庭という、もうひとつの作品
1906年後半、アストルップは農場の一室でエンゲル・アンダースドッテル・スンデと出会い、翌1907年に結婚します。1913年からは湖の対岸、サンダルストランドに移り住み、そこを自給自足の農園として開墾しました。妻とともに急斜面をテラス状に切り拓き、古い丸太小屋を伝統的な集落の形「トゥン」へと再構成していったのです。[4,6]
この庭そのものが、彼の作品でした。樹木を剪定してトロールのような形に整え、日本や英国の庭園に着想を得た「グロット」と呼ばれる空間をつくり、庭のなかに視点を定めて、そこから見える風景を約22点の絵画に描いています。1925年の《ヨルステルの春》は、彼が妻とともに築いたサンダルストランドの農園を描いた一枚。《ルバーブ》はルバーブを摘む光景を、《庭の春の夜》は木々に囲まれた黒土の花壇と、その背後に広がる湖を描いています。生活と農作業と絵画とが、ここでは分かちがたく結ばれているように感じられます。[4,6]


行く前に、もう一度
パリで学んだ技法を携えて故郷に帰った画家が、自ら築いた庭と、眠れない夜の景色を描き続けた。夏至祭の火、北斎に学んだ木版画、そして庭——この3つは、アストルップという画家を知るための手がかりです。会場でどの絵に出会うとしても、その根はきっと、この小さな谷につながっています。焚き火の炎のゆらぎも、手で刷り重ねた木版画の質感も、画面ごしには、その半分も伝わらないはずです。
行く前に聴く
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