暗い谷に立つ、ひとつの火
まず、一枚の絵を思い浮かべてみてください。深い谷間の底に、巨大な火柱が燃え上がっています。炎はまわりの山々を、そして集まった人々の姿を照らし出し、闇との対比のなかでゆらめいています。ニコライ・アストルップの《夏至祭の焚き火》です。ノルウェー西部イェルステルの谷に伝わる、聖ヨハネ祭の前夜に焚かれるかがり火を描いたこの作品は、1912年に着手され、完成したのは1926年。14年もの歳月をかけて仕上げられた、晩年の大作です。[3,4]

北国の夏は短く、夜も深く暗くなりきりません。そのわずかな季節の生命力を、火が象徴しているかのようにも感じられます。炎の揺らぎや立ちのぼる煙のなかに、自然に潜む何かの息づかいを見てとってしまうのは、私だけではないのではないでしょうか。[3]
谷を出なかった画家
アストルップは1880年、ノルウェー南部に生まれ、1883年からは父が牧師を務めたイェルステル湖畔の村で育ちました。1895年には神学校に進むためトロンハイムへ送られますが、そこで美術館に通い、近代の画家たちの作品に触れます。神学の道ではなく、絵の道へ。1899年にはクリスチャニアの女性画家ハリエット・バッケルの画塾で学び、絵画の研鑽を積みました。[1,4]
けれど、彼は都に留まりませんでした。1902年に故郷イェルステルへ戻り、以後の創作の源泉をこの土地に置いたのです。イェルステルは高い山々に囲まれた長く狭い谷で、方言も文化も古ノルド語に根ざした、伝統的な生活様式が残る場所でした。アストルップは自らの芸術を特定の土地に深く根ざしたものと定義し、他の画家や同時代の運動からの直接的な影響を否定していたといいます。谷にこだわり続けた画家、と呼びたくなります。[4,6]
パリで北斎に出会う
そんな彼にも、外の世界へ出た時期がありました。1901年から翌年にかけて、美術収集家の支援を受け、パリのアカデミー・コラロッシでクリスチャン・クローグに師事します。このパリ留学中、彼はアンリ・ルソー、モーリス・ドニ、ポール・ゴーギャン、そして葛飾北斎の作品を研究しました。ゴーギャンら西洋の画家の木版画に親しみ、クリスチャニアではエドヴァルド・ムンクの制作の様子を観察してもいます。[4,6]
やがてアストルップは、ムンクと並んでノルウェーにおける近代木版画の先駆者と見なされるようになります。彼の版木には主にハンノキが用いられ、プレス機を使わず、手や木片で紙の裏をこする「日本式」の手法で刷られました。版木に直接油絵具を塗り、刷ったあとにも筆で彩色を重ねる。だから一点ごとに表情が異なり、本人は「版画というより絵画に近い」と評していたそうです。木版画《ジギタリス》は、多色刷りと正確な紙の配置に精度を要し、数部を刷るのに2ヶ月以上を費やしたといいます。ムンクも彼の版画を高く評価し、《少年の頭部》を含む3点を購入しました。日本での開催で、この木版画の仕事にぜひ目を向けてみてください。[4,6]

庭という、もうひとつの作品
1906年後半、アストルップは農場の一室でエンゲル・アンダースドッテル・スンデと出会い、翌1907年に結婚します。1913年からは湖の対岸、サンダルストランドに移り住み、そこを自給自足の農園として開墾しました。妻とともに急斜面をテラス状に切り拓き、古い丸太小屋を伝統的な集落の形「トゥン」へと再構成していったのです。[4,6]
この庭そのものが、彼の作品でした。樹木を剪定してトロールのような形に整え、日本や英国の庭園に着想を得た「グロット」と呼ばれる空間をつくり、庭のなかに視点を定めて、そこから見える風景を約22点の絵画に描いています。1925年の《ヨルステルの春》は、彼が妻とともに築いたサンダルストランドの農園を描いた一枚。《ルバーブ》はルバーブを摘む光景を、《庭の春の夜》は木々に囲まれた黒土の花壇と、その背後に広がる湖を描いています。《ヨルステルの春の夕べ》には、妻エンゲルの姿が描き込まれています。生活と農作業と絵画とが、ここでは分かちがたく結ばれているように感じられます。[4,6]



時間をかけて、光をつかむ
《夏至祭の焚き火》に14年、《ルバーブ》も1911年から1921年にかけて長く加筆され続けました。アストルップは作品に日付を記すことが稀で、時間をかけて一枚に向き合う画家だったことがうかがえます。1910年の《春の白い馬》のように、春を主題とした油彩も残しています。[4,6]
谷を出なかった画家が、パリで学んだ技法を携えて故郷に帰り、自ら築いた庭と夏の夜を描き続けた——その線を、ぜひ会場でたどってみてください。焚き火の炎の温度も、和紙にのった色の質感も、実物の前でしか確かめられないものではないでしょうか。



