メアリー・カサット(1844–1926)は、アメリカのペンシルヴェニア州に生まれ、パリを拠点に描いた画家です。フランスの印象派の画家たちと一緒に展覧会に出品した、ただ一人のアメリカ人でした。[1,3,2]
作品の多くは家の中の場面で、母と子や、お茶を出す、手紙を書くといった女性の日常を描きました。1890年、パリで日本の浮世絵の大きな展覧会を見たカサットは、色刷りの版画に打ち込みます。木版ではなく銅版で浮世絵の平らな色と線に迫った10点の版画と、同じころの油彩を、作品をたどりながら見ていきます。[3,5,2]
| 生没 | 1844年、アレゲニー・シティ(現在のピッツバーグの一部)生まれ/1926年、フランス・オワーズ県ル・メニル=テリビュで没 |
|---|---|
| 拠点 | 1874年からパリ |
| 仲間 | エドガー・ドガ(1877年に知り合う。誘われて印象派の展覧会に出品) |
| 描いたもの | 家の中の場面が多く、とくに母と子 |
パリに住み、印象派に加わったアメリカ人
カサットはフィラデルフィアのペンシルヴェニア美術アカデミーで学んだあと、ヨーロッパに渡って古い巨匠たちの絵を学び、1874年にパリに住まいを定めました。[1,5,2]
1877年、画家エドガー・ドガと知り合います。ドガの誘いで、1879年から印象派の展覧会に出品するようになりました。8回開かれたその展覧会のうち、出品したのは1879年、1880年、1881年、1886年の4回です。[1,4,2]
のちにカサットは、このときのことを「喜んで応じました」「わたしは、生きはじめていた」と振り返っています。1913年に出た最初の評伝の、本人への聞き取りです。[18]

《バルコニーにて》は、1880年の展覧会に出した油彩で、カサットにとって2回目の出品でした。花に囲まれた庭で、女性が読んでいるのは小説ではなく新聞です。家の中にいても同時代の世の中とつながっていることを示している、とシカゴ美術館は解説しています。[7,3]
家の中の場面が多い背景
カサットの作品の多くは家の中の場面です。シカゴ美術館の学芸員は、夜の街やカフェのような人の集まる場所よりも、家の中の場面のほうがカサットにとって近づきやすい題材だった、と書いています。シカゴ美術館は《手紙》の解説でも、当時の社会の決まりが女性の家の外での行動を縛っていたことを、家の中の女性に目を向けた理由に挙げています。[3,6]
1880年代の終わりからは、母と子を主題にするようになります。温かいまなざしでとらえた母と子の姿は多くの共感を呼び、カサットは「母子像の画家」と呼ばれるようになりました。[1,12,2]

《母のおやすみのキス》は1888年のパステルです。[16]
1890年、パリで見た浮世絵の展覧会
1890年の春、パリの国立美術学校(エコール・デ・ボザール)で、日本の浮世絵の大きな展覧会が開かれました。並んだ版画は725点。17世紀の菱川師宣から、時代を追って浮世絵の全体を見せる展覧会でした。[4,13,10,5]
カサットは、友人の画家ベルト・モリゾに手紙を書き、一緒に見に行こうと誘っています。九州大学の吉田典子さんの論文は、この手紙を次のように訳しています。「あなたはこの展覧会を絶対に見逃してはなりません。色彩版画を手がけたいと思っていらっしゃるなら,これ以上美しいものなんて想像できないでしょう。私は色彩版画を夢見ていて,銅版画の色彩のことしか考えられないのです!」[13,4]
日本の版画は、この展覧会のずっと前から、カサットや同時代の人々によく知られていました。カサット自身も、日本の版画や陶磁器、扇を熱心に集めています。浮世絵に描かれた母と子、身支度をする女性、訪問とお茶の時間は、このときすでにカサット自身の主題でもありました。[4,2]

《午後のお茶会》では、訪ねてきた客に、若い女性がお茶と菓子をすすめています。当時、女性たちは午後にたがいの家を訪ね、お茶を出すのが習わしでした。[5,15]
木版ではなく銅版で刷った、10点の色刷り版画
展覧会のあと、カサットはすぐに自分の版画の連作に取りかかります。浮世絵は木版画ですが、カサットが使ったのは銅版でした。技法は主にドライポイントとアクアチント(腐蝕銅版画の一種)で、作品によってはソフトグラウンド・エッチングも加えています。[3,5,4,17,12,2]
色は、版の上に直接置きました。1点の版画に最大3枚の銅版を使い、1枚ずつ手で色を塗ってからプレスにかけます。刷るたびに色が少しずつ、ときには大きく変わりました。[4,12,5]
連作は、カサットが自ら、プロの刷り師ルロワの助けを得て刷りました。部数は25部です。シカゴ美術館の《手紙》の余白には、鉛筆でフランス語の書き込み「Imprim[ée] par l'artiste et Mr. Leroy」(画家とルロワ氏による刷り)と「(25 épreuves)」(25部)があります。10点は1891年、パリのデュラン=リュエル画廊で展示されました。[4,6,9,11,13]
シカゴ美術館は、《手紙》では服と壁紙の柄、鮮やかなインクで空間の見え方を操っている、と解説しています。ワシントンのナショナル・ギャラリーは、空間を平らにするのは、当時ヨーロッパで人気のあった日本の木版画に典型的なやり方だった、としています。[6,5]

《乗合馬車》は、10点のうちでは珍しい外の場面です。当時、中流以上の家の女性はひとりで外を出歩かず、付き添いを連れるのがふつうでした。左の女性の手の込んだ帽子と、右の女性の簡素な帽子で、二人の身分の違いも描き分けられています。[5]

10点のうち4点には鏡が描かれ、画面の空間を広げ、複雑にしています。《仮縫い》では、鏡が、仕立ててもらっている若い女性の姿をもう一度見せています。[11,5]
10点のうち最初に作ったのは、母と子を描いた《湯あみ》です。カサット本人によれば、日本の意匠を本気でまねようとしたのはこの1点だけでした。仕上げるまでに重ねた段階(ステート)は17で、10点のうちでいちばん多い数です。[5]
歌麿とつながる、うなじと身支度
1890年の展覧会には、喜多川歌麿の版画も並んでいました。カサットが1890年代に作った色刷り版画には歌麿の影響がとくに強く表れている、とカンザス大学のスペンサー美術館は書いています。横浜美術館も、カサットは歌麿や鳥居清長の風俗の描き方と平らな画面の組み立てを研究し、女性の日常を描く連作を作った、としています。[12,2,13]


《ランプ》は、後ろ姿の女性のうなじに目が向かう構図です。この視点は、カサットが持っていた歌麿の版画から来ているかもしれない、とメトロポリタン美術館は解説しています。ナショナル・ギャラリーも、うなじが東洋の美術で美のしるしとされたことに触れ、この点に注目しています。[10,5]
《髪結い》は、鏡の前で髪を整える女性です。メトロポリタン美術館は、この場面が遊女の身支度を描いた歌麿の木版画と響き合うとし、カサットはそうした歌麿の版画を所蔵し、称賛していたと書いています。[11,2]
ただ、カサットが集めた浮世絵は、1950年の売り立てで散らばってしまいました。どの1枚がどの作品のもとになったのかを突きとめるのは難しい、とされています。[13]
1893年の油彩《子どもの入浴》
1893年の油彩《子どもの入浴》は、日本の木版画の研究から得た形を、油彩の大きな画面に持ちこんだ作品です。高い位置から急な角度で見下ろしているので奥行きが浅く、床の絨毯は奥へ退かずに、画面に立ち上がって見えます。縞の服、床の柄と、画面じゅうに模様があります。[8,3,2]

切り取った形、強い模様と輪郭線、平らな遠近は、どれも日本の木版画の研究から得たものだ、とシカゴ美術館は解説しています。この絵はシカゴ美術館が1910年に買い入れ、館に入った最初のカサット作品になりました。[8,2]
コレクターへの助言と、晩年
カサットは、アメリカのコレクターに絵の集め方を助言する役目も果たしました。友人ルイジーン・ハヴマイヤーとその夫のコレクションづくりに深くかかわり、その多くは今、メトロポリタン美術館にあります。シカゴ美術館がエル・グレコの大作《聖母被昇天》を1906年に手に入れたときも、カサットがその取得を後押ししました。[1,3,2]
1892年から93年にかけて、シカゴ万国博覧会の女性館のために壁画《モダン・ウーマン》を描きました。壁画は残っておらず、行方がたどれるのは1912年までです。[14,2]
1900年を過ぎると視力が衰えて制作が難しくなり、晩年は描くことから遠ざかりました。1926年、ル・メニル=テリビュの館で亡くなっています。[1,2]
最後に、もう一度《ランプ》を見てください。ランプの笠の曲線が扇の形と響き合い、女性を家の中の空間になじませています。ランプの台や陶器の置物、ソファの曲線も、日本風の要素として挙げられています。[10,5]







