東海道の宿場も、江戸の町も、当時を生きた人なら誰もが見慣れていたはずの景色です。それなのに、広重が描いた一枚の前では、つい足が止まってしまう——そんな経験をされる方は多いのではないでしょうか。
その理由をひとことで言うなら、「どこから見るか」への並外れたこだわりにあるように感じられます。歌川広重(1797-1858)は、江戸時代後期に名所絵で一世を風靡し、生涯にわたって第一線で活躍し続けた絵師でした。実は当初、彼が描いていたのは役者絵や美人画。1828年に師の豊広が没したことをきっかけとして、以降は風景画を主軸に据えたと伝えられています。方向転換のあとに広重が追い求めたもの——それが「視点と構図の発明」だったのではないでしょうか。三つの風景画シリーズを、一本の線でたどってみたいと思います。1
旅の一瞬を、天候と時刻で切り取る
まず思い浮かぶのは、東海道の宿場を題材とした連作でしょう。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね、それを作品に活かしていたといいます。ただ場所を写すのではなく、その土地に流れる時間や空気を描こうとしたのかもしれません。1
夜の雪が降り積もる静けさ、朝の霧に包まれてゆく宿場。同じ道でも、天候や時刻が違えば別の顔を見せます。広重はその「一瞬」を選び取り、旅人の情景として画面に定着させました。



ヒロシゲブルーという新しい青
広重の画面を語るとき、欠かせないのがあの鮮やかな青です。作品に見られる青色は、欧米で「ヒロシゲブルー」と称賛されました。これは当時ヨーロッパから輸入された新しい顔料「ベロ藍」によるもので、木版画の性質から油彩よりも鮮やかな色を示すため、フェルメール・ブルーになぞらえてそう呼ばれたといいます。1
新しい青が、広重の空や水を変えていったのではないでしょうか。夕立の雨脚、夜のしじま、川面の広がり——この色があってこそ生まれた表現があるように感じられます。そしてこの青が、やがて海を越えていくことになります。
山国の街道に落ちる、たそがれの光
東海道が海沿いの旅なら、木曾の街道は山国をゆく道です。渓斎英泉との合作として知られるこのシリーズでは、山あいの宿場が描かれました。なかでも、たそがれ時の光が静かに移ろってゆく一枚は、広重の時刻へのまなざしをよく物語っているのではないでしょうか。昼でも夜でもない、あわいの時間。その微妙な光を版画で表そうとした試みに、旅の情景を「時刻」で描く姿勢が貫かれているように思えます。

車輪越しに、橋を斜めに——視点の極致へ
そして最晩年、還暦を迎えてから62歳で没するまでの3年間、広重は絶筆とも言える連作に挑みます。安政3年(1856年)から安政5年(1858年)にかけて制作された『名所江戸百景』です。広重の署名がある作品が118点存在し、一人の絵師が描いた浮世絵版画のシリーズとしては最大級の枚数といわれています。2
このシリーズで広重がたどり着いたのが、手前に極端に大きなモチーフを配置する「近像型構図」でした。近景と遠景を大胆に切り取り、俯瞰やズームアップを駆使する——橋を斜めに切り、手前のモチーフを画面いっぱいに拡大する。「どこから見るか」の発明が、ここで極点に達したように感じられます。王子や目黒といった自然豊かな地域を新たな名所として開拓し、市中から郊外まで視野を広げたのもこの時期のことでした。2

広重の死後、このシリーズには二代広重の補筆が加わり、『一立斎広重 一世一代 江戸百景』として刊行されました。全120点のなかには、二代広重の署名がある作品や、目録も含まれて構成されています。2
広重の青と構図が、海を越えて
広重の色彩や構図は、19世紀後半のフランスの印象派やアール・ヌーヴォーの画家たちに影響を与え、世界的なジャポニスムの流行を生む一因になったとされています。ゴッホが『タンギー爺さん』の背景に広重の富士を模写として描き込んだことも、よく知られたエピソードです。3
同じ景色でも、広重の一枚だと足を止めてしまう。その理由は、彼が生涯をかけて磨き続けた「視点と構図の発明」にあったのではないでしょうか。刷りの藍の深さも、紙の質感も、複製ではなかなか伝わりません。その発明の軌跡を、どうぞ会場で、ご自身の目でたどってみてください。




