速水御舟(1894–1935)は、東京に生まれ、40歳で亡くなった日本画家です。1908年に日本画の塾に入り、1914年に「御舟」と名乗りました。短い画業のあいだに、描き方を何度も大きく変えています。[1,3]
「絵画修業の道程に於て私が一番恐れることは型が出来ると云ふことである」。亡くなる半年前、御舟はこう書いています。細部を一本ずつ描き込んだ舞妓、金地に並ぶ菊、闇に舞う蛾、四百年の椿、椅子に掛けて編み物をする女性。五つの作品を、細部と動画でたどります。[2]
「悲痛な美しさ」を描いた舞妓
1917年から足掛け4年、御舟は京都に暮らしました。《京の舞妓》(1920年)は、その京都で描いた一枚です。花簪と燕の髪飾り、白く厚い化粧、菖蒲の絞りの着物、足元の畳。御舟の目は、舞妓の美しさを探すよりも、そうしたものの一つひとつに向けられました。[1,4]
顔は無数の細い線を重ねて描かれ、畳は金地に墨の線で一目ずつ表されています。発表当時、この絵は御舟の生涯でもっとも厳しく批判され、見当違いの無意味な努力だとまで書かれました。[1]

御舟自身は、発表の年にこう書いています。「他人に少しでも美しく見せ度いとして焦慮して居る人間の浅ましい美しさ、まこと浅ましい美しさではあるが、それでも人間として其処に捨て難い寧ろ悲痛な美しさがある」(「悲痛な美」1920年)。[2,1]
細密描写の頂点
翌1921年の《菊花之図》は、金地に菊の花だけを並べた四曲一双の屏風です。琳派を思わせる構図に、気が遠くなるほど細かな写実が重ねられています。乱れた花びら、しなだれた葉。写しとるうちに見えてきた、痛ましいほどの花の美に迫った作品だと、尾崎正明は見ています。[1]
十数年後、御舟はこの頃を振り返り、「私の細密描写はこの頃をもつて頂点としたやうに考へられる」と書きました。同じ文章で、この屏風を今見ると「統一といふものがほとんどないくらゐ部分的にばかり走つてゐる」とも言っています(「四」1934年)。[2]
軽井沢の夜から生まれた《炎舞》
1925年の夏、御舟は家族と軽井沢の別荘で過ごしました。毎晩のように焚火をして、炎に集まる蛾に見入っていたといいます。蛾の写生は、精しく色をつけたものが数多く残っています。そこから生まれたのが《炎舞》です。[1]
蛾は写生図のとおりに羽を開き、どれも表を向いています。群れ飛ぶ本物らしさは、ここではあえて捨てられました。炎のほうは、古い仏画や絵巻の炎を思わせるほど形が整えられています。身を焼く生々しさはなく、その舞は幻のようだと評されます。[1]

描きかけの《炎舞》を二階の窓際に立てかけておいたところ、散歩から帰った家族が「二階が火事だ」と騒いだ、という話も残っています。[1]
四百年の椿《名樹散椿》
1929年の春、御舟は京都の椿寺(地蔵院)で、樹齢四百年といわれる散椿を写生しました。昔から名木とされる木には、そう言われるだけの「特殊な崇高美」があるはずだ、と御舟は書いています(「椿の制作に就いて」1929年)。[1,2]
はじめは、愛宕の時雨桜と並べて一つの画題にするつもりでした。けれど描き始める前に、椿の「濃厚強度な色感」と桜の淡い趣では組み合わせが締まらない、と考え直しています。[2]
幹を右に置き、枝を左へのばして、画面にうねるような動きをつくる構図です。金地は、金の粉を大量に撒いて摺りつぶす「撒きつぶし」という技法で作られています。[1]

翌1930年、この屏風はイタリアで開かれたローマ日本美術展に出品されました。御舟は横山大観らとともにヨーロッパへ渡り、旅の費用には《名樹散椿》の画料が充てられています。[1,3]
椅子に掛けて、編み物をする女性
1932年の《花ノ傍》について、御舟は「現代婦人が椅子にかけて編物をしてゐる所です」と書いています(「『花の傍』」1932年)。縦縞の着物、編み物、花瓶のダリア。江戸の風俗画がその時代を描いたように、今を生きる人の風俗を描くことが狙いだった、と尾崎は見ています。[2,1]
少し上から見下ろす視点で、手前から奥へ、モティーフを積み上げるように空間が組まれています。床の模様、部屋の角、テーブルクロスの線は、画面の上で無理なく溶け合っています。日本画家が自覚して試みた、モダニズムの一例とされる作品です。[1,5]

二度描き直し、三度目でようやく出品しましたが、満足はしていなかったようです。それでも御舟は書いています。「出した以上あれ丈けで勝負をする事は覚悟です」。[2,1]
型を壊しつづけて
1935年2月末、御舟は腸チフスにかかり、3月20日に亡くなりました。40歳でした。[1,3]
その前の年、御舟は「型を恐れる」という文章で、評判がよく、自分でもよくできたと思った絵に近い型は、二度と手にしないと書いています。「いつになつたら自分で満足し得られる画境に落付くのだらうか。それは知らない。一生型を壊しつゝ終るかも知れない」(「型を恐れる」1934年)。[2]



