借りものの土地で
ノルウェー西部、山あいの湖のほとりに、ひとりの牧師の息子がいました。日曜日にはオールフスの教会で父の礼拝に出席することを求められ、17の歳から27になるまでのおよそ10年を、古い牧師館の家で過ごします。初期の絵は、みなこの家で生まれました。ただし、その土地は国有の借地。彼のものになることは、決してありませんでした。[6]
画家になってからも、土地のない暮らしはつづきます。実家の敷地では、取り壊しを待つだけだった古い貯蔵庫の増築部分に移り住んで制作の拠点にし、一時は郵便局の建物に間借りして、家事のいっさいを自分でこなしました。描く場所も、住む場所も、いつも借りもの。——アストルップの庭の話は、ここから始めなければ意味が通りません。[6]
33歳、はじめての土地
1913年。33歳のアストルップは、ヨルステルのサンダルストランドに移り住みます。そして1928年に47歳で亡くなるまでの15年間、この土地を自給自足の農園として——公式カタログの言葉を借りれば「ひとつの芸術作品」として——開墾していきました。[1]
エンゲルとともにテラスを築き、2、3頭の牛と数頭の羊、荷馬車を引く馬一頭を飼う。アルジェリアの旅で見たテーブルを自分の手で作り直して、暮らしのなかに置く。借りものの家を転々としてきた男が、ここでは土から家具まで、生活のすべてを自分の手でつくっていきます。[1,6]
庭が、絵を生みはじめる
そして庭は、ただの畑にとどまりませんでした。木々を剪定してトロールのようなかたちに整え、日本や英国の庭園に想を得た「グロット」と呼ぶ空間をつくる。さらに庭の中に決まった視点をいくつも定めて、そこから見える風景を描く——こうして生まれた絵は、約22点を数えます。この庭では、耕すことと描くことがひとつの営みでした。[1]
庭で、女性がルバーブを摘んでいます。かがみ込む背中、摘みとられた赤い茎の束、画面の手前いっぱいに広がる大きな葉。《ルバーブ》——原題は《ラバルブラ》。制作地として記録されているのは、育った村オールフス。1911年に始まり、サンダルストランドへの移住をまたいで、1921年まで10年にわたって手が入れられました。自分の庭を築いていくまさにその歳月に、庭の実りを摘む光景を描きつづけた——この一枚は、その証言のように見えます。[6,3]

じつは、庭を描くことは自分の土地を得る前から始まっていました。1909年——サンダルストランドに移る4年前——の《庭の春の夜》が描くのは、オールフスの庭。木々に囲まれた黒い土の花壇と、その奥に広がるヨルステル湖です。そして自分の農園を得たあと、1925年の《ヨルステルの春》はサンダルストランドを描き、公式カタログが記録するモチーフには「農家・小道・庭・湖・木・小川」——暮らしの風景が、まるごと並びます。[6,4,5]


庭師が植えたもの——絵の中の植物図鑑
彼が育て、描いたものを、拡大で見てみます。ルバーブもキツネノテブクロ(ジギタリス)も、あなたの庭や近所の花壇で育っているかもしれない植物です。これは絵のディテールであると同時に、ひとりの庭師が自分の土地に植え、選んだものの目録でもあります。

公式カタログはこの花を、湖や森とならぶ《ジギタリス》の主要モチーフとして記録しています。[7]

《ルバーブ》の主題そのもの。画面の手前いっぱいに広がります。[6]

摘みとられる茎。10年の加筆は、この収穫の場面に注がれました。[3]
庭は動けない。絵が、旅をする
アストルップは1928年、47歳でこの世を去ります。庭はエンゲルが守りつづけ、1966年に彼女が亡くなったのちは、公立の美術館として公開されるようになりました。いまの名前は「アストルプトゥーネット」。そして作品目録の基礎となった1985年の学位論文には、こんな題がついています——『虹の下の庭師』。[1,6,2,8]
ただし、その庭は谷から動くことができません。テラスも、トロールの木も、ノルウェーまで行かなければ見られない。けれど、庭から生まれた絵は旅をします。2026年の冬、日本ではじめての回顧展として、東京にやってくるのです。土地を持たなかった男が、自分の庭を築く歳月のあいだ描きつづけた、実りの赤。10年分の筆がこの画面のどこに重なっているのか——それを確かめられるのは、実物の前だけです。






