Menu
美術館展覧会

アルベール・マルケ——窓から描いた、河岸と港

マティスの友人で、フォーヴの中でいちばん穏やかだった画家。なぜ彼の絵は灰色なのか。窓から何を見ていたのか。三つの作品を、細部と動画でたどります。

アルベール・マルケ(1875–1947)は、パリのセーヌ河岸と、旅先の港を描き続けたフランスの画家です。セーヌ河岸の部屋を移り住み、その窓から描きました。高い窓から見下ろした河岸、橋、行き交う船と人影。その多くが、同じような高さから描かれています。[1,5]

画学生のころからアンリ・マティスの友人で、1905年には、純色を大胆に使う仲間とともに「フォーヴ(野獣)」と呼ばれました。けれど仲間の中では、いちばん穏やかな画家でした。なぜ彼の絵は灰色なのか。窓から何を見ていたのか。三つの作品を、細部と動画でたどります。[1,3]

生没1875年、ボルドー生まれ/1947年、パリで没
描いたものセーヌの河岸と橋、ル・アーヴルやハンブルク、アルジェなどの港
友人アンリ・マティス(画学生時代からの友人)
住まいセーヌ河岸の部屋を移り住み、窓から描いた。1931年に買った部屋は「窓のため」だった
[1]

窓から描いた画家

マルケは1902年、セーヌのトゥルネル河岸に部屋を借り、窓からノートルダム大聖堂の後ろ姿を、時刻を変えて何枚も描きました。1905年には両親とグラン=ゾーギュスタン河岸25番地に移り、今度は窓から見下ろす河岸と、サン=ミシェル橋やノートルダムの方角を描き始めます。[1,5]

1908年には、マティスが引き払ったサン=ミシェル河岸19番地のアトリエに移り、長くそこから描き続けました。1931年、ポン・ヌフとシテ島を見渡すドーフィーヌ通りの部屋を買ったときも、理由は「窓のため」だったと伝えられています。[1,5]

この頃の河岸の絵は、ほとんどが少し高く、少し脇に寄った位置から描かれています。斜めに走る線で、奥行きをつくる組み立てです。[6,1]

高いところから、河岸を斜めに見下ろす。斜めの線で奥行きを出す。この頃の河岸の連作に共通する組み立て。
1 / 4
《グラン=ゾーギュスタン河岸》 (1905–1906) — アルベール・マルケ · René Hourdry / ウィキメディア・コモンズ(CC BY-SA 4.0)
《グラン=ゾーギュスタン河岸》の細部を、見下ろした河岸から順に。

なぜ、こんなに灰色なのか

《グラン=ゾーギュスタン河岸》では、霧が細かいところを消し、河岸の線と建物の輪郭だけを残しています。奥のポン・ヌフは霧に沈み、画面のやわらかな灰色を破るのは、岸につないだ船の朱色だけです。[3]

この灰色について、マティスは後年こう振り返っています。マルケには絵の具を、とくに値の張るカドミウムの絵の具を買うお金がなかった。だから灰色で描いた。その暮らしの事情が、彼の画風を育てたのかもしれない、と。[3,5]

ただ、マルケをフォーヴの一人にしたのは、色の激しさではなく、形を単純にし、くすんだ色を大きく平らに置くやり方だった、とも言われます。手段が無かったからか、選んだからか。1936年、南仏の家族のもとにいた妻へ、パリに残ったマルケはこう書いています。「いつも素晴らしい天気だ。良すぎて、かなり単調だ。少し灰色の天気が見たい」。[3]

この河岸は、なぜこんなに灰色なのだろう。《グラン=ゾーギュスタン河岸》をたどる動画(約1分)

1906年、港町ル・アーヴルの夏

1906年の夏、マルケはノルマンディーの港町ル・アーヴルに滞在しました。同じ年ごろの画家ラウル・デュフィと一緒でした。町は7月14日の国の祝日と、7月中旬の海の祭典の週が重なり、通りも港も旗で飾られていました。二人は並んで、同じ景色を描いています。[1,4,5]

《ル・アーヴルの7月14日》は、旧市街でもとくに細い通りに面した、カフェ・デュ・ノールの2階の狭いテラスから描かれました。そのテラスで、描きかけの絵の前に並ぶ二人を写した写真も残っています。見下ろす高い位置は、マルケがいつも好んだ場所でした。[1,5]

カフェの2階の狭いテラスから、界隈でも指折りの細い通りを見下ろす。マルケは、場面を広く見渡せる高い位置を好んだ。
1 / 4
《ル・アーヴルの7月14日》 (1906) — アルベール・マルケ · Finoskov / ウィキメディア・コモンズ(CC BY-SA 4.0)
《ル・アーヴルの7月14日》の細部を、見下ろした通りから順に。

祝日の旗の赤を、黒い線がくくります。マルケの黒は、形の輪郭であると同時に、それ自体が色でもある、と MuMa の学芸員は書いています。祭りの人出は、数人の黒い影だけで表されています。[2,1]

この旗は、何の日の旗だろう。《ル・アーヴルの7月14日》をたどる動画(約1分)

同じ夏、ホテルの窓から

マルケは、港の二つの船だまりのあいだに建つホテルに泊まり、その部屋の窓からも描きました。《ル・アーヴルの縁日》では、左に青く広がる船だまりと、高い屋根をのせた商工会議所の建物が見えます。岸には、裕福な船主たちのヨットが並んでいます。[1,2,4]

左に広がる青い水は、港の中の船だまり。岸に並ぶのは、裕福な船主たちのヨット。
1 / 4
《ル・アーヴルの縁日》 (1906) — アルベール・マルケ · René Hourdry / ウィキメディア・コモンズ(CC BY-SA 4.0)
《ル・アーヴルの縁日》の細部を、船だまりから広場へ。

色の面も、屋根も、回転木馬のテントも、黒い線で縁どられています。人ごみは、わずかな黒い影だけ。港のざわめきも、祭りのにぎわいも、マルケの画面ではしずまって見える、と評されます。同じ夏に並んで描いたデュフィが、人の多い通りの活気を描いたのとは対照的でした。[1,4]

この祭りの広場を、画家はどこから見ていたのか。《ル・アーヴルの縁日》をたどる動画(約1分)

旅と晩年

マルケはよく旅をしました。1909年にはドイツの港町ハンブルク、1920年に初めてアルジェリアを訪れ、1923年に結婚してからは冬をアルジェで過ごすようになります。1925年にはノルウェー、1938年にはストックホルムへ。1934年に再びル・アーヴルを訪れたときは、港に面したホテルに3週間滞在しています。[1,5]

晩年、病に弱ったマルケが最後に描いたのは、雪の積もったパリの眺めでした。1947年6月、パリで亡くなります。[1,5]

「私は書くことも話すこともできない。描くこと、素描することだけだ。私が描いたものを見てください」。妻マルセルの本に残る、マルケ自身の言葉です。[1]

東京・新宿の SOMPO美術館では「開館50周年記念 アルベール・マルケ展」が開かれています(2026年9月22日〜12月13日)。この記事は artible が独自に書いたもので、展覧会の公式ガイドではありません。展覧会の情報は公式サイトでご確認ください。[7]

よくある質問

アルベール・マルケはどんな画家?
フランスの画家(1875–1947)。パリのセーヌ河岸と、ル・アーヴルやアルジェなど旅先の港を、高い窓から見下ろして描き続けました。
マルケはフォーヴの画家?
1905年、純色を大胆に使う仲間とともに「フォーヴ(野獣)」と呼ばれた一人です。ただ、仲間の中ではいちばん穏やかな作風で、色の激しさより、形を単純にし、くすんだ色を平らに置くやり方に特徴があります。
マルケとマティスの関係は?
画学生のころに出会った生涯の友人です。1900年のパリ万国博覧会では二人で装飾の仕事を請け負い、1908年にはマティスが引き払ったアトリエにマルケが移り住みました。
マルケの絵はなぜ灰色が多い?
マティスは、若いマルケには高価な絵の具を買うお金がなく、灰色で描いたと振り返っています。一方でマルケ自身は、1936年の手紙で晴れ続きを「単調だ」と書き、「少し灰色の天気が見たい」と記しています。

この記事で触れた作品