パリの街を歩いていると、ふとした瞬間にタイムスリップしたような感覚になることはありませんか?特にオルセー美術館の周辺は、かつて印象派の画家たちがキャンバスを広げ、誕生したばかりの写真機を抱えた芸術家たちが闊歩した場所です。彼らが見つめた19世紀のパリは、今よりもずっと静かで、それでいて近代化の熱気に満ちていました。
この記事では、オルセー美術館にほど近いセーヌ河畔や庭園を描いた10の作品をご紹介します。写真、油彩、版画――。技法は違えど、そこには当時の光の粒や人々の息遣いが鮮やかに閉じ込められています。教科書で見るような堅苦しい美術解説ではなく、当時のパリっ子になった気分で、そのディテールをじっくり覗いてみましょう。
知っているようで知らない、150年前のパリの素顔。そこにはどんな驚きが隠されているのでしょうか。

| 項目 | 情報 |
|---|---|
| 作品名 | パリ・ルーヴル宮帝国図書館の入り口 |
| 作者 | ビソン兄弟 |
| 制作年 | 1854年 |
| 技法・素材 | 写真(塩プリント) |
| 所蔵 | シカゴ美術館 |
まず最初にご紹介するのは、1854年に撮影されたこの写真です。今のルーヴル美術館の一部ですが、当時は「帝国図書館」の入り口でした[1]。撮影したのはビソン兄弟。兄のルイ=オーギュストと弟のオーギュスト=ロザリーは、写真という技術が生まれて間もない頃に活躍したパイオニアです[2]。
彼らは単に記録するだけでなく、建築の美しさをどうドラマチックに伝えるかに情熱を傾けました[3]。

入り口の上部に刻まれた文字が見えますか?「BIBLIOTHEQUE IMPERIALE DU LOUVRE(ルーヴル帝国図書館)」とありますね。ナポレオン3世の時代の誇りが感じられます。

面白いのがこちら。入り口付近に立てかけられた木製の足場です。当時のパリはオスマン男爵による大改造の真っ最中で、街のいたるところで工事が行われていたんですよ。

中央のレリーフには、非常に細かな彫刻が施されています。写真の解像度が低かった時代に、これほど鮮明に質感を捉えているのは驚きですよね。
この扉の向こう側には、どんな静寂が広がっていたのでしょうか。

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|---|---|
| 作品名 | チュイルリー宮殿 |
| 作者 | エドゥアール・バルデュス |
| 制作年 | 1855/57年 |
| 技法・素材 | アルブメン・プリント |
| 所蔵 | シカゴ美術館 |
次は、ルーヴルから続くチュイルリー宮殿の優雅な姿です。撮影者のエドゥアール・バルデュスは、フランス政府から「歴史的建造物を記録せよ」というミッションを受けた、いわば当時の公式カメラマンでした[4]。
この写真は「アルブメン・プリント」という、卵の白身を使った技法でプリントされています[5]。今のデジタル写真にはない、しっとりとした深い味わいがありますよね。

建物の一部には「PAVILLON TURGOT(テュルゴ館)」の文字が見えます。

屋根近くの三角形の部分(ペディメント)に注目してください。人間離れした技量で彫られた彫刻たちが、空を背負って立っています。

そしてこの急勾配の屋根。これこそが「パリ!」という感じがしませんか?マンサード屋根と呼ばれるこの形は、当時の建築美の象徴でした。
もし今、この広場に立っていたら、馬車の走る音が聞こえてきそうだと思いませんか?

| 項目 | 情報 |
|---|---|
| 作品名 | ポン・ヌフとサマリティテーヌ浴場 |
| 作者 | イポリット・バイアール |
| 制作年 | 1847年 |
| 技法・素材 | 写真(ソルトプリント) |
| 所蔵 | シカゴ美術館 |
パリで最も古い橋、ポン・ヌフを描いた1847年の風景です。作者のイポリット・バイアールは、写真の歴史を語る上で絶対に欠かせない人物です。実は彼、ダゲールよりも先に写真技術を発明していたと言われている、不運の天才なんですよ[6]。
この作品の見どころは、橋そのものよりも、川に浮かぶ奇妙な建物です。

これが有名な「サマリティテーヌ浴場」です[7]。昔のパリの人たちは、セーヌ川に浮かぶこうした施設でお風呂を楽しんでいたんですね。今では考えられない光景です!

ポン・ヌフの堅牢なアーチも見事に捉えられています。

河岸に並ぶ建物たち。窓の一つ一つに、当時の人々の生活が詰まっていたのでしょう。
不運の天才バイアールがこのシャッターを切ったとき、彼は未来の私たちがこうして作品を見ていることを想像していたでしょうか。

| 項目 | 情報 |
|---|---|
| 作品名 | セーヌ河の眺め、パリ |
| 作者 | スタニスラス・レピン |
| 制作年 | 1872年頃 |
| 技法・素材 | 油彩、キャンバス |
| 所蔵 | シカゴ美術館 |
ここからは絵画の世界へ。スタニスラス・レピンは、モネやルノワールたちが開催した「第1回印象派展」にも参加した画家です[8]。派手さはありませんが、パリの日常を淡々と、それでいて愛情深く描くことで知られています[9]。
この絵には、当時のパリの空気がそのまま閉じ込められているようです。

遠くに見えるのはノートルダム大聖堂の双塔。霧に包まれたような、優しいシルエットですね。

セーヌ川は当時、物流の主役でした。こうした大きな荷船がひっきりなしに行き交っていたんです。

水面のゆらぎを見てください。レピンの繊細なタッチが、川の流れを今にも動き出しそうに見せています。
華やかなパリの裏側にある、こうした静かな日常。あなたもこの河岸に腰掛けて、ぼーっと眺めてみたくなりませんか?

| 項目 | 情報 |
|---|---|
| 作品名 | ヴィルヌーヴ=ラ=ガレンヌの橋 |
| 作者 | アルフレッド・シスレー |
| 制作年 | 1872年 |
| 技法・素材 | 油彩、キャンバス |
| 所蔵 | メトロポリタン美術館 |
印象派の中でも「最も純粋な印象派」と呼ばれたのがアルフレッド・シスレーです[10]。彼は生涯を通じて風景画を描き続けました。この作品が描かれた1872年は、彼にとってまさに脂の乗った絶頂期といえます[11]。
パリの郊外にあるこの橋は、当時最新の「吊り橋」でした。

この鋭い鉄骨のライン!シスレーは伝統的な風景に、こうした「近代の産物」を組み込むのが本当に上手かったんです。

水面を見てください。光の粒が踊っているようです。青、白、黄色。短い筆致を重ねることで、きらめく光を表現しています。

向こう岸に見える白い家。太陽の光を浴びて輝いています。
シスレーの描く世界は、いつもどこか優しくて穏やかですよね。この絵を見ていると、深呼吸したくなるような清々しさを感じませんか?

| 項目 | 情報 |
|---|---|
| 作品名 | セーヌ河畔の風景、パリ近郊 |
| 作者 | アルフレッド・スティーグリッツ |
| 制作年 | 1894年 |
| 技法・素材 | 写真(フォトグラビア) |
| 所蔵 | シカゴ美術館 |
再び写真に戻ります。でも、先ほどの記録写真とは雰囲気が違いますよね。作者のアルフレッド・スティーグリッツは、「写真は単なる記録ではなく、絵画と同じ芸術であるべきだ」と唱えたアメリカ人です[12]。
1894年に撮影されたこの写真は、まるで夢の中の風景のようです。

道の中央に、ちょこんと山羊が座っています。19世紀のパリ近郊は、まだこんなにのどかだったんですね[13]。

力強く立つ並木の幹。モノクロだからこそ、樹皮の質感や木漏れ日のコントラストが際立ちます。

どこまでも続いていきそうな未舗装の道。この先には何があるのでしょうか。
スティーグリッツは、この静かな一瞬に永遠を見出したのかもしれません。

| 項目 | 情報 |
|---|---|
| 作品名 | オートゥイユ河岸の荷船 |
| 作者 | アンリ・ルソー |
| 制作年 | 1885年 |
| 技法・素材 | 鉛筆、ペン、インク、ウォッシュ、紙 |
| 所蔵 | シカゴ美術館 |
「税関吏ルソー」として知られるアンリ・ルソー。独学で絵を学び、そのピュアで不思議な作風はピカソたちをも虜にしました[14]。この作品は油彩ではなく、紙に描かれた珍しいドローイングです[15]。
ルソーらしい、どこか「おもちゃの世界」のような可愛らしさがあります。

画面の端には、誇らしげなルソーの署名が。

ちょこちょこと歩く二人の人物。ルソーが描く人間は、いつもどこかコミカルで愛らしいですよね。

背景の建物も、まるでお城のよう。遠近法が少し独特なのもルソーの魅力です。
この絵を見ていると、ルソーが毎日楽しくセーヌ河畔を散歩しながら、心の中で空想を広げていた様子が目に浮かびませんか?

| 項目 | 情報 |
|---|---|
| 作品名 | チュイルリー |
| 作者 | エドゥアール・ヴュイヤール |
| 制作年 | 1895年 |
| 技法・素材 | リトグラフ |
| 所蔵 | シカゴ美術館 |
エドゥアール・ヴュイヤールは、19世紀末に活躍した「ナビ派(預言者という意味)」のメンバーです[16]。彼らは現実をそのまま描くのではなく、自分の感覚や感情を色や形に託しました[17]。
このリトグラフ(版画)は、当時のパリ市民の憩いの場、チュイルリー公園を描いています。

子供を背負った女性。当時の育児の様子が伝わってきますね。

シルクハットを被った紳士。ヴュイヤールの描く線はとても太くて大胆です。

地面に落ちる影。これだけで、そこにある強い日差しが伝わってきます。
ヴュイヤールは友人たちとスタジオを共有し、新しい芸術を模索していました[18]。この斬新な構図も、当時の「モダン」の最先端だったんですよ。

| 項目 | 情報 |
|---|---|
| 作品名 | チュイルリー庭園 |
| 作者 | エドゥアール・ヴュイヤール |
| 制作年 | 1896年 |
| 技法・素材 | リトグラフ |
| 所蔵 | シカゴ美術館 |
同じヴュイヤールによる、翌年の作品です。先ほどの作品よりもさらに色彩が豊かになり、平面的な美しさが際立っています。彼はポール・ゴーギャンなどの影響を受け、純粋な色彩の組み合わせを楽しみました[19]。
まるでお洒落なポスターのようですよね。

チェック柄のドレス!19世紀末のパリのファッションは、いつ見ても心が躍ります。

画面を斜めに横切る道。この大胆な構図が、画面に奥行きとリズムを与えています。

ふわりと飛び立つ鳥。一瞬の動きを捉えるセンスが抜群です。
ヴュイヤールの作品は、どこを切り取ってもデザインとして完成されています。あなたなら、この絵をどこに飾りたいですか?

| 項目 | 情報 |
|---|---|
| 作品名 | パリ、グラン・オギュスタン河岸 |
| 作者 | ドナルド・ショウ・マクラフラン |
| 制作年 | 1906年 |
| 技法・素材 | エッチング |
| 所蔵 | シカゴ美術館 |
最後を飾るのは、1906年に描かれたエッチング(版画)です。作者のマクラフランは、あの有名なホイッスラーとも親交があり、レンブラントの古典的な技法を深く研究した人でした[20]。
この緻密な線!写真とはまた違う、エッチング特有の鋭さと温かみが共存しています。

手前に描かれた荷船。一本一本の線が、船の重厚感を表現しています。

そしてこのビル。これこそが、オスマン男爵によって作り上げられた「近代都市パリ」の姿です。

遠くに見えるドーム状の屋根。霧の中に消えてしまいそうな儚さがあります。
マクラフランが描いたこの風景は、100年以上経った今でもパリのどこかに残っていそうな気がしてきませんか?
19世紀のパリを巡る「オルセー散歩」、いかがでしたか?
写真が誕生し、街が急速に近代化していく中で、芸術家たちはそれぞれのやり方で「今、この瞬間」を残そうとしました。ビソン兄弟の精緻な記録、シスレーの光あふれる水面、そしてルソーの夢のような風景。それらはすべて、かつてパリを愛した人々が確かにそこにいた証拠でもあります。
作品のディテールに注目してみると、当時の人々の服の模様や、川に浮かぶお風呂屋さんなど、教科書には載っていないような面白い発見がたくさんありましたよね。次にあなたがパリの街を歩くとき、あるいは美術館でこれらの作品に出会うとき、この10枚の風景が心の中で鮮やかに蘇ることを願っています。
あなたはどの時代の、どの場所に一番惹かれましたか?
今回ご紹介した作品は、artibleの音声ガイドでもお楽しみいただけます。
静かな解説とともに、絵の前に立っているような体験を。
[1] The Getty - Bibliothèque Impériale du Louvre
[3] Wikipedia - Bisson frères (Photography techniques)
[4] Wikipedia - Édouard Baldus
[5] Wikimedia Commons - Tuileries from the Louvre
[6] Wikipedia - Hippolyte Bayard
[7] Art Institute of Chicago - Le Pont-Neuf...
[8] Art Institute of Chicago - View on the Seine, Paris
[9] Wikimedia Commons - Paintings by Stanislas Lépine
[10] Wikipedia - The Bridge at Villeneuve-la-Garenne
[11] Wikipedia - Alfred Sisley's Career
[12] Art Institute of Chicago - On the Seine—Near Paris
[13] Art Institute of Chicago - Alfred Stieglitz Information
[14] Wikipedia - Henri Rousseau
[15] Art Institute of Chicago - Mess Downstream, the Auteuil Quai
[16] Wikipedia - Édouard Vuillard
[18] Art Institute of Chicago - The Tuileries Garden 1895