第1章 ・ 読む
世界をありのままに映す — 油彩がひらいた写実
絵具が変わると、世界の見え方まで変わりました。

目の前にあるものを、あるがままに描く。それがルネサンスの画家たちを突き動かした、ひとつの大きな夢でした。
この夢を実現させた最大の武器が、**油彩**という絵の具です。顔料(色の粉)を油で溶いたもので、最大の特徴は乾くのがとても遅いこと。一見すると不便に思えますが、これが絶大な力を生みました。乾く前に薄い色を何度も何度も塗り重ねられるため、光のやわらかなにじみや、布が折れるときの微妙な陰影まで、それまでの絵画では不可能だった繊細さで描き出せるようになったのです。この技法は、現在のベルギーやオランダにあたる北ヨーロッパの地で花開きました。
その頂点に立つ画家が、ヤン・ファン・エイクです。

彼はブルゴーニュ公という大貴族のお抱え画家として、経済的にも社会的にも恵まれた立場にありました。当時の画家が職人組合の決まりに縛られていたのに対し、ファン・エイクは好きな時に好きな仕事ができるという、きわめて異例の自由を享受していました。「油彩画の発明者」とまで後世に呼ばれた彼の代表作が、一組の夫婦を描いた室内画です。
この絵に近づくと、驚きが次々とやってきます。

男性と女性の握手
細部
二人が交わす手の表情を見てください。指の一本一本に光が宿り、皮膚の質感まで伝わってきます。

壁の凸面鏡
細部
背後の壁に掛かる小さな凸面鏡には、部屋の入り口に立つ人物たちの姿がぐるりと映り込んでいます。現実の空間が、絵の中にまた一つの「窓」を開けているようです。さらに鏡の横には「ファン・エイクここにありき、1434年」という署名が記されており、画家自身がこの場の目撃者であることを宣言しています。

女性の顔
細部
女性の顔に目を移せば、まつ毛の一本、肌のきめまで、息をのむほど丁寧に描き込まれています。
中世の絵は、神の教えを人々に伝えるための「記号」でした。人物の大きさは現実の比率よりも「重要さ」で決まり、金色の背景は天上の世界を意味しました。でもここでは違います。窓から差し込む光、床に脱ぎ捨てられた靴、部屋の片隅に置かれた小物——すべてが「この世界のこの瞬間」を記録しようとしています。
油彩の登場は、絵画にとってのカメラの発明に近い革命でした。世界をありのままに映す。その意志と技術が出会ったとき、絵画はまったく新しいものへと生まれ変わったのです。
出題出題されやすい語重要語地名・年号・概念・技法