舟を取り囲む亡者たちは上下にうねる波のような形で配置され、不安定な水面と共鳴しています。左右の亡者はまるで「不気味なブックエンド」のように、画面に閉塞感を与えています。[1] 画面には対照的な心理状態が描かれています。恐怖に震えるダンテに対し、ウェルギリウスは超然として彼を支えます。周囲の亡者たちは狂気的な執着か、あるいは完全な絶望の中に沈んでいます。[1]
亡者の体に流れる水滴は、白・黄・緑・赤の4色の純色を混ぜずに並べて描かれています。この色彩分割の技法は、後の印象派へと繋がる先駆的で驚くべき実験でした。[1] 亡者の肌に光る水滴の表現は、ルーベンスの『マリー・ド・メディシスのマルセイユ到着』に描かれた海神の娘たちから着想を得たものです。これがドラクロワの色彩家としての出発点となりました。[1] ウェルギリウスが纏う白いリネンは、批評家から「嵐の中の閃光」と評されました。地獄の業火を思わせる背景の赤や、渡し守の青い衣との鮮烈な対比が、劇的な緊張感を生んでいます。[1]
本作は当初リュクサンブール美術館に収蔵されましたが、ドラクロワの死から11年後の1874年にルーヴル美術館へ移されました。現在はフランス・ロマン主義を象徴する傑作として展示されています。[1] 賛否両論を巻き起こした本作ですが、1822年の夏にフランス政府によって2000フランで購入されました。若きドラクロワはこの知らせに歓喜し、画壇での地位を確固たるものにしました。[1] ドラクロワ自身は、舟の向こう側から手を伸ばす亡者の頭部を「この作品で最も上手く描けた頭部」と自負していました。この表現はル・ブランやフラクスマンの作品から着想を得たとされます。[1] 酷評の一方で、巨匠グロはこの作品を「洗練されたルーベンス」と絶賛しました。バロックの巨匠ルーベンスを彷彿とさせる力強い色彩と動勢が、ロマン主義の幕開けを告げたのです。[1] サロンの審査員の一人デレクリューズは、この野心作を「本物の塗りたくり(下手くそな絵)」と酷評しました。新古典主義が主流だった当時、彼の革新的な筆致はスキャンダラスに映ったのです。[1] ドラクロワは1822年のサロンに間に合わせるため、2ヶ月半もの間、不眠不休で制作に没頭しました。完成時には心身ともに衰弱しきっていましたが、この執念が彼の出世作を生んだのです。[1] 完成から2年後、ドラクロワは自作を振り返り「力強さが足りない」と漏らしています。次作『キオス島の虐殺』に取り組む中で、彼はさらなる激しい表現を追求するようになっていました。[1]