画面中央では、父の教えから逃れようとする息子と、その腕を離すまいと掴む瀕死の父の姿が描かれています。この「掴まれた腕」は、美徳と放蕩の間の絶望的な葛藤を表現しています。[1] 息子コモドゥスが纏う鮮やかな赤色のローブは、単なる衣装ではありません。それは彼が秘める「危険な官能性」と、後に帝国を破滅させる享楽主義を象徴しています。[1]
この大作はドラクロワ一人の手によるものではありません。弟子のルイ・ド・プラネが師の厳密な指示に従い、下書きや基礎となるグレーズ(透層彩色)の工程を担当しました。[1]
ドラクロワがこの主題を思いついたのは1824年のこと。実際に制作を開始するまで、実に20年もの歳月をかけて構想を温め続けていた、執念のテーマでした。[1] 詩人ボードレールはこの絵を「天才のなせる業」と絶賛しました。世間の評価が分かれ、理解されにくい作品であった当時、彼はこの絵の崇高さをいち早く見抜いていたのです。[1] 制作当時、ドラクロワは重い病に苦しんでいました。その身体的な苦痛が、死にゆく皇帝を描いたこの作品の、重苦しく沈鬱な雰囲気に色濃く反映されていると言われています。[1] ドラクロワは皇帝アウレリウスの著書『自省録』を愛読するストイック哲学の信奉者でした。賢帝の死を「文明の脆さ」として描いた背景には、彼の深い個人的な傾倒があります。[1] ドラクロワはこの作品に対し、日記で「軽蔑」という言葉を使うほど複雑な愛憎を抱いていました。他の画家の凡庸な作品と比較してようやく、自作の価値を認めることができたのです。[1] 古代ローマの終焉を描きながら、実は当時のフランス社会を批判しています。ドラクロワは、物質主義と快楽主義に溺れる19世紀の現代社会への警鐘をこの絵に込めました。[1] 「人類は無限に進歩する」という当時の楽観的な進歩信奉を、ドラクロワは否定しました。文明はいずれ衰退し、出発点に戻るという彼の冷徹な歴史観がこの終焉の場面に反映されています。[1]