

それまでの静かな画風を打ち破り、激しく動く使徒たちの姿を描きました。この「動」の表現は、ラファエロやミケランジェロといったローマの巨匠たちへの挑戦状でもありました。[1] 当時「聖母被昇天」は正式な教義ではなく議論の的でした。ティツィアーノは石棺をあえて控えめに描くことで、死後の昇天か生前の昇天か、どちらの信者も納得させる絶妙な配慮を施しました。[1]
巨大な画面はキャンバスではなく、厚さ3センチの杉の板を21枚も繋ぎ合わせて作られています。現在でも表面をよく見ると、横方向に走る板の継ぎ目を確認することができます。[1] 背景に風景を一切描かず、黄金の光で埋め尽くす手法を採用しました。これはヴェネツィアのサン・マルコ寺院のモザイク画のような、伝統的な聖性を現代的に再解釈したものです。[1]
ヴェネツィア最大の祭壇画で、描かれた人物は等身大を遥かに超えるサイズです。巨大な聖堂の入り口からでも見えるよう計算されており、その圧倒的なスケールは当時の人々に衝撃を与えました。[1] 1518年5月19日の公開日は、多くの群衆が集まれるよう祝日が選ばれました。当時の日記作家によって、そのお披露目が一大イベントとして記録されるほど注目を集めたのです。[1] 制作中、修道士たちは人物が大きすぎると何度も文句を言いました。ティツィアーノは「遠くから見るために必要だ」と説得し続け、完成後はヴェネツィア最高の画家の地位を不動のものにしました。[1] 作者ティツィアーノはこの作品があるフラーリ聖堂に埋葬されています。本来は別の場所の予定でしたが、ペスト流行の混乱の中で、自らの傑作が飾られたこの場所に眠ることになりました。[1] 出来栄えを疑った修道士たちが受け取りを拒もうとした際、居合わせた皇帝の特使が「それなら私が買い取ろう」と言い出したため、慌てて修道院側が引き取ったという伝説が残っています。[1]
聖堂の入り口にある仕切りのアーチ越しに見ると、絵画の丸い上部が完璧に額装されたように見えるよう設計されています。建物と絵画が一体化する視覚効果が計算し尽くされています。[1]